今回の企業報告は、株式会社田子の月、代表取締役、牧田一郎君です。現在、田子の浦埠頭(株)の代表取締役、富士商工会議所会頭、茶道裏千家淡交会の冨士支部支部長も兼任し、ロータリー歴31年です。会合の挨拶では、予定の講演が急に変更になった時など、「時間調整役の牧田」と自称し、演者に代わって短い挨拶も長い挨拶も軽妙にできる方です。先を読める頭脳明晰な方で、今回も、しっかりとインタビューの資料として、お父様の自叙伝『田子の月おいたちの記』、自社の『第51期田子の月経営方針書』、さらに田子の月の総務課からの多数の写真のデータを頂き、暗に≪お前、しっかりとインタビュー記事を書けよな!≫のプレッシャーを受けながら、まとめさせていただきました。
田子の月の基本方針は、一郎君のお父さんで創業者の牧田良三さんが掲げたものを守り続けています。
1) 田子の月は消費者に代わって菓子・食品の研究調査に努力を傾け、田子の月が売るものなら間違いないと消費者に信用される企業を目指す。
2) 食品情報を重視し、世の中の動きに敏感に反応する企業を目指す。
3) 世界に通ずる食品づくりを目指し、世界の市場に打って出ることを願望する。
そして、お父さんから事業を引き継いだ一郎君は、現在、『いいお菓子からいい出会いが生まれる』ことをスローガンに、人作り、菓子作りに努力しています。田子の月社員の行動指針に『八つの心得』を示しています。1.素直、2.前向き、3.勉強、4.自発、5.挑戦、6.感謝、7.礼節、8.笑顔と挨拶です。
牧田君は、富士市柚木の名家、牧田家の25代目だそうですが、歴史が古すぎて自分ではよく知らないと言います。お父さんの良三さんが亡くなられた時に、当クラブの会長だった妙福寺住職長谷川汎氏が富士ニュースに『牧田家の歴史』を書いてくれたと言います。銀行の頭取だった曽祖父の時代までは、加島村一番の旧家で、お殿様と言われるぐらいの家柄で、小作人も多数居住し、年間に1万俵の小作米が入ったくらいだったそうです。しかし、祖父は青山学院の神学部で学んだ人ですが、酒におぼれ、事業も失敗し、財産を使い果たし、若死にしたようです。祖母は由比町の由比本陣の生まれだそうです。
一方、明治43年生まれのお父さんは、酒も飲まず、硬いだけの男で、文章を書くのが好きだったので、祖父とは離れて、すでに戦前から東京で地方紙の会社に勤め、経済記事を担当していたそうです。記事のネタとして、東京の有名菓子店の虎屋、新宿中村屋などに出入りし、そのうちに、新宿中村屋創業者の相馬愛蔵、黒光夫妻の知己を得て、店に修行に入ったわけではないものの、自由にお菓子の製造工程などを見せてもらい勉強したそうです。相馬御夫妻は物書きでもあり、その点でもお父さんと気が合い、目をかけられ、見よう見まねで菓子作りを覚えたそうです。そして東京の中野で饅頭屋を始めたそうです。昭和13年に、国家総動員法が施行されると砂糖が統制になり、店の売上高によって砂糖の配給量が決められたそうです。それまでは、店の売り上げも順調で中野区の5本の指に入っていたそうです。しかし、戦争が進み、ついに砂糖の配給も無くなってしまい、軍に徴用され、東芝府中工場で働くことになったそうです。
牧田君は平成20年4月5日の生れで、まさに自分の誕生に人生の運・不運を感じると言います。
臨月でお母さんが入院していた新宿区の大久保病院周辺も空襲が激しく危なくなってきたので、一郎君の出産後、予定よりも早く3~4日で退院したそうです。まさか病院が燃えるはずはなく、大丈夫と思っていたが、彼の退院後の翌々日に焼夷弾が落とされ、病院は燃えてしまったそうです。まだ病院に入院していて、死んだ人もいただろうに、わずか2日の違いで、一郎君はこの世に生を得ることが出来たと言います。その後、お母さんの実家が東京にあり、その実家に身を寄せていたそうです。お母さんは、結婚前は会社の事務員をしていましたが、結婚後は2つ年上のお姉さんと一郎君の子育てをしていました。
結局、昭和20年4月の東京空襲で住んでいた中野の家も燃え、住むところが無くなり、富士に戻ったそうです。富士に戻ってもお祖父さんが事業に失敗しており、少しの財産もない。かつての実家の小作人だった人達は何も助けてくれない、むしろいじめられたこともあったそうです。住む家が無いので、昔の吉原本町のヤオハンデパートの裏に、矢部庄吉商店が所有していた三軒長屋があり、その借家の真ん中が空いていたので、そこをお父さんは借りたそうです。
お父さんは、自身が甘いものが好きなこともあり、東京にいた時に覚えた菓子作りを基礎に、昭和21年に、今川焼を作り、夫婦で屋台を引いて売り始めたそうです。敗戦で世の中が暗いので、世の中を明るくしようと、名前は、お楽しみ焼きと名付けたそうです。アルマイトの鍋を買って来て、台所のかまどで、来る日も来る日も豆を煮て、あんこを作ったそうです。その時代は砂糖はなお統制品で、元々しっかりと基礎から修行をしたわけでもない素人なので、商売は上手くいかず、売れなかったそうです。ある時、静岡新聞に最中一品で大繁盛の店が静岡にあるという記事が載ったそうです。その記事を見たお父さんは、これだと思い、すぐにその店、喜久屋さんに電話して、面会を頼み、自分の思いを伝えたそうです。先方からは、『いつでもいらっしゃい』と言われ、話を聞かせてもらったそうです。その店の主人は、元々大阪の船場の下駄屋の息子だが、道楽息子で勘当されてしまい、有り金を全部使って、列車で東京まで行こうと思ったものの、金が尽きて、たまたま列車で静岡に降り立ったそうです。そして、菓子屋になろうと思い、丁稚奉公に行き2年間の下積みをして、静岡市呉服町に店を構えて、繁盛店になったそうです。『僕は最中一品で成功した。君も味さえ良ければ最中一品で行ける。当たるよ、頑張れ。』と、お父さんは言われたそうです。どうしたらよいあんこが出来るかと、悶々としていたときの出会いだったそうです。その後、吉原本町通りに一間足らずの店を開き、その後、移転し昭和27年に現在のフジイチ薬局の近くの唯称寺の門前を借りて、そこに2~3坪の田子の月店を開いたそうです。ヤオハンの長屋は住まいと作業場を兼ね、最中は皮にあんこを入れて蓋をして手作業で作ったそうです。店の創業当時は、一郎君は小学校1年で、詳しいことまでは覚えていないそうです。お父さんが、箱に最中を40個ぐらい入れ、2箱を自転車の荷台に積んでバンドで止めて、作業場からお寺まで引いて運び、子供達が後ろから自転車を押して手伝ったそうです。お寺の門前店では、8年間ほど、家族で最中を中心に団子、大福など、和菓子を販売していたそうです。一郎君と同学年の子供が中学を卒業し、住み込みで第一号の社員になったそうです。しかし、店が火事になってしまい、それを機会に、昭和35年、今泉で食堂をしていた家が廃業して空いていたので、そこを借り、移転したそうです。そこに作業場と店を構え、パートの従業員も3~4人雇うようになったそうです。
田子の月の代名詞ともいえる餅入り最中(角最中)は、昭和35年に販売しています。大福は外がもち米で、中があんこ、一方、中にあんこを詰めて蓋をすれば最中、それなら、あんこを詰めた上に餅を乗っけて最中にしても、大福の食べ口と同じで、もっと良くなると思い、売り出したそうです。お父さんは、自分が良いと思った新製品を出すにしても、広告と宣伝をしなければ売り上げは伸びないと考え、発売後1か月は、店に来た人に、買う買わないは関係なく、みんなに角最中を配ったそうです。すると手応えがあり、初年度から餅入り最中の売り上げは順調で、1年後には店全体の売り上げが、あれよあれよと伸び、それが田子の月の最初の大ブレークだったそうです。当時は全国には、餅入り最中と似たような商品はなかったそうです。
お父さんは、自分には十分な菓子作りの技術が無いのを自覚し、菓子職人を斡旋してくれる会社から、従業員を3~4人雇っていたそうです。また一郎君の弟の二良さんが、子供の頃から家業の菓子作りに興味を持ち、またお父さんの勧めもあり、中学卒業後、いくつかの菓子店に修行に行ってから、田子の月に戻り、菓子職人として働き始めていたそうです。お父さんは、簡単な団子を焼いたり、丸めたりして、新しい菓子の創作、きれいな形に整えるなどは、職人達、二良さんがしたそうです。
一方で、一郎君は、特に家業を云々するという考えが決まらず、沼津東高校に進学しました。その後、中央大学商学部に進学しました。一郎君が大学3年時には、自宅に戻った二良さんが家業を支えており、まだ今泉の店だけなので、一郎君が戻っても仕事をする場所がないと思い、腕に技術を身に着けようと学生時代から、国会議事堂の傍の一番町にある日本IBM社で、季節、決算の時期に、アルバイトをしていたそうです。決算期には、アルバイトを10人程動員し、近くのビジネスホテルに詰め込まれ、決算に必要な書類の作成を手伝っていたそうです。昭和42年に大学を卒業し、そのままIBMに入社しました。中央大学の先輩で、公認会計士の資格を持つ社員が沢山いて、主計課の部長などに可愛がってもらったそうです。一郎君も公認会計士の資格を目指して勉強し、IBMには2年間在職しました。しかし、朝早くから夜遅くまでお店で一心不乱に働いていたお母さんから、『いっちゃん。お前は長男だから、家を助けておくれ、私も、何時、倒れてしまうかもしれない、早く戻ってきておくれ。』と、毎日のように電話がかかってきたそうです。頑張り屋のお母さんを敬愛していた一郎君は、もう戻るしかないと富士に戻ったそうです。目指していた公認会計士の国家試験は難しく、受験勉強に専念しなければ受からない難関であり、店も忙しくなり、そんな掛け持ち状態で受かるようなものではないので、公認会計士の道は諦めたそうです。
弟の三良さんも、親戚の後継ぎとして養子になる予定だったのですが、お父さんにやはり兄弟3人で家業を大きくしろと説得され、大学卒業後に自宅に戻ったそうです。
しかし、兄弟3人、それに御両親がいる今泉店だけでは、35坪ぐらいの敷地に30坪の作業所、それに5坪の狭い店で大変だったと言います。二良さんが菓子職人としてベテランなので工場長で給料5万円、三良さんが工場次長、一郎君が営業部長で、三良さんと一郎君の給料は、各々一万円だったそうです。
お父さんから、『兄弟、仲良く、田子の月を盛り立てろ。でも、お前たち、この給料で満足か。』と言われたそうです。とても今の売り上げでは、やっていけない、それならどうしたら良いかと、毎晩、全員で相談したそうです。昭和44年には、吉原本町店を開店しましたが、兎にも角にも、売り上げを伸ばさなければ食べていけない、給料ももらえない、小さい工場のままでは目処が立たないと、一郎君が、新たな工場探しに出かけたそうです。義兄の芦田鉄工の社長に相談したら、丁度、家に空いている場所が700坪あるから、そこに建物を建てて貸すから家賃をくれと言われたそうです。それを機会に昭和50年にその700坪の土地を借り150坪の工場を建て、本社と工場にしました。さて、そうなると、これまでの今泉店程度の売り上げでは話にならず、大きく投資して失敗しても、他の仕事に就くわけにもいかない、背水の陣で、この和菓子の仕事にしがみついて、会社を大きくしてガンガンやろうと思ったそうです。売り上げアップを至上命令にして、一郎君は、営業と総務と、それに拡張の店舗探しを担当し、弟達には工場で良い菓子を作ってくれと言ったそうです。新工場が出来たら品物が出来過ぎるので、それを売るために、富士店、本社売店、沼津北、沼津南、函南、富士宮阿幸地と、次から次へと、各地に店舗を増やしたそうです。各店舗は、地主との相談や意向で決めて、借地もあるし、売りたいと言われたり、田子の月が欲しいと思った土地ならば買ったりして、広げていったそうです。
昭和56年に本社工場を増築し、一部4階建て、350坪の工場へ生まれ変わりました。昭和57年に創業30周年になり、記念菓子の富士山頂も発売し、一郎君が社長になりました。社長人事については、お父さんは最後まで悩み、一郎君か、会社の苦しい時代から働いてくれた二良さんかで、関係する人たちにも繰り返し相談に行ったそうです。最終的には、順番通りにということで長男の一郎君に決定し、二良さんが専務、三良さんは取締役兼工場次長でスタートしたそうです。1年後に、菓子職人として和菓子、洋菓子の技術を持つ二良さんが、もっと技術を生かしたいということで、フランスに渡り1年間修行をし、帰国後も東京の有名店、そして仙台の有名店で修業しました。その後、富士に戻り、洋菓子のミミとして青葉町に独立開業しました。お父さんは創業時に、菓子屋として成功するには、聞く耳が必要と思ったそうです。そして味が大事だから味を重んずるという意味も持たせて、屋号を味味屋としました。二良さんのミミは、この屋号が由来だと言います。また、田子の月の由来は、お父さんが、月が皓皓と明るい夜に田子の浦に行った時に、沼川に映った月を見てひらめいたそうです。
その後も、一郎君は、昭和51年から平成10年まで、田子の月を50店舗、売上100億円を目標に計画を立て、三島、静岡、清水、焼津、御殿場、裾野にと、何店舗もガンガン出店、開店、新築改装をしました。多い時は1年に3店も、増やしたそうです。
一郎君は、自分に特別な能力があってできたのではなく、バブルの最盛期だったから出来たと言います。現在なら、こんな場所に店を出したらまずいと思うところでも、バブル時代は、商品が売れ、黙っていても給料は増えたと言います。一郎君は自分のことをバブルの申し子と言います。昭和62年には、現在の今泉に本社工場、敷地2,000坪、工場建坪2階建700坪を新築移転しました。平成元年に、本店敷地内に洋菓子店、生け花店、ギフトショップの3店舗のテナント店を持つ複合店をオープンしました。商品も、皆様におなじみの、『たごっこ(創業35周年記念菓子)』『もちまん(創業40周年記念菓子)』も世に送り出しました。
しかし、やがてバブル景気がはじけて、平成4~5年から売り上げに影響が出てきました。それまで偽りの大きさまで膨らんでしまった経済が、急速にしぼんで行ったのです。
バブル時期は、今は無くなってしまったヤオハンもその絶頂期にあったし、この地区では天神屋さんも人手に渡ってしまいました。富士地区の同じ勉強仲間のちゃんこの江戸沢さんも、ガーと勢いがあった。 しかし、バブルの崩壊と共に、あれよっという間に、一気に消えていったと言います。一郎君も世の中で喧伝されていた『大きなことはいいことだ』とばかりに、事業の拡大ばかりをガンガンと考えていたそうです。自分の経営指針のよりどころとして、日本全国商業会の勉強会で、毎年箱根の大きなホテルで三泊四日のゼミを受けていたそうです。そこに約3000人が集まり、バブル期の挨拶言葉は、『やあ、今年は、何店舗ほど増えた?売り上げがいくらになった?』だったと言います。前年まで売り上げが100億だった企業が、1年後には300億、500億になった、去年100店舗だった企業が200~300店舗になった。そんなことが珍しくない、当然だと考えていた時代だったといいます。今振り返ると、挨拶言葉から凄かった、そんな花の盛りがバブル期の終焉とともに消えていった。その時に思ったことは、バブル期が終わったら何が残ったかというと、戦後の日本の焼け野原と同じで、栄華を誇った企業が野垂れ死にし、荒れ地しか残っていない状況だったと言います。小売業で初めて年商1兆円を超えた企業のスーパーダイエーも消えた。この短い期間に、どれだけ自分のかつての仲間が消えていったか。その時に、事業で一番大事なことは、生きること、存続させること、何が何でも続けることだと、心から思ったそうです。
田子の月の年商も落ちた。一郎君は、ありとあらゆる経営の効率化を考えたが、売り上げが下がり続けたと言います。大きかった経済が一気に縮小してしまったが、何かしなければいけない。世の中は虚礼廃止が叫ばれ、田子の月の主力分野でもあるギフト商品は出なくなってしまった。
しかし、これだけは守らなければいけないと思ったのは、差別化と言います。
1) 最高品質の商品を作れ、最高の品を作る徹底的な差別化をしろ、それには、鮮度感が大事、どら焼きは1日しか持たない、硬くなってしまう。よその会社は大福、柏餅等に多種多様な添加物が入っているから、賞味期間が3日も長く持つ。それを田子の月は添加物を使うなと指示したそうです。日にちが持たないから、土産に持っていけないという問題はあるが、最終的には健康志向、安全志向の食品。鮮度感を出せと。
2) 菓子作りでは、効率化オンリーは絶対駄目。手間隙をかける、そこに味の秘密が隠されている、とも指示したそうです。
3) 田子の月の菓子は日持ちしない。だから美味しいのです。素材選びから徹底して鮮度の良い品を厳選してきた。原材料を厳選し、無理に長く日持ちさせる事をせず、一途に品質にこだわった商品だから美味しいのです。
かつて話題になった三重県伊勢神宮おかげ横丁の名店の赤福事件は、菓子会社としてはありえないと言います。すでに製造日付を貼ってあった売れ残りの商品を会社の冷凍庫に保存し、新たにそれを出荷する時に貼ってあった日付札を剥がして、新しい日付で貼った。それが内部告発でばれた。しかし、行政指導を受け、会社での法令順守を徹底し、再開している今は、売り上げは以前よりも伸びているそうです。
インスタント食品のペヤングも、異物混入事故があり、同じく、長期間、生産操業を止め、あらゆる部署の改革改善を図り、再開したが、お客さんが待ってましたとばかりに来たので、以前よりも業績は伸びているそうです。
田子の月の商品数は、お父さんの時代には人気和菓子の最中一品で商売になり、少しずつ増やしたが、せいぜい5品ぐらいだったそうです。現在、従業員は250人いる。商品は、年間を考えると、短いイベント期間用だけの物や、季節で売り出すものなど、100~120種類にものぼるそうです。なぜ種類が多いかというと、以下の様に、話してくれました。
昔は人々の生活はまだ貧しく、食べるものも豊富ではなく、お菓子をたくさん作っても、作れば作るほどロスが増えてしまう。最中一品でも、人気商品ならば、黙っていても売れる時代だったが、次第に人々の生活も豊かになり、嗜好の変化もあり、洋菓子の種類、店も増えた。和菓子の数種類だけでは、飽きが来てしまう。和菓子は季節季節、四季の中にいろいろな歳時が入る。例えば、子供の成長を祝う七五三、お節句、5月の柏餅があり、菓子作りは季節の語り部だ。24節季だけでも、それに合わせれば24種類の菓子が出来る。それ以外にも日本の四季折々の田植え、収穫、五穀豊穣の祝い事、お月見などもある。そういう四季の中での移り変わりを和菓子で表現すると100種ぐらいになる。一度には100種ではないが、年間を通すとそれだけになる。夏はのど越しの悪い甘いものは売り上げが伸びない、その代わりに、水羊羹、あんみつなど冷たいものが出る。常に職人は他店にも研修にも行かせるし、東京の有名店からも技術者を呼んで指導してもらい、会社のレベルアップを図っていると言います。
現在置かれている菓子屋の問題は、一つはコンビニ業界との競争だそうです。いまや、各町内のどこのコンビニにも、大きな棚のスイーツコーナーがある。昔は種類も少なかったものが、今は3倍のコーナーになり、最大のライバルだそうです。菓子専門店の業界の売り上げは、本来の菓子店で売られるはずの売り上げの21%、五分の一をコンビニに持っていかれている現状だと言います。
もう一つの菓子業界の脅威は、インターネット販売の進歩で、どこの有名店の菓子でも個人が何時でも手に入る時代になったことだそうです。田子の月もインターネット販売をしているが、インターネットのマーケットも激戦で大変だと言います。インターネットで繁盛するには条件があると言います。いかに顧客にメリットを与えるか、値引きも無ければ、おまけも無い、ただ美味しいというだけで買ってもらえるか。それだけで利用してくれるお客もいるが、わざわざインターネットで注文したのだから、何かメリットを寄こせよというお客もいる。その点に、頭を悩ましていると言います。
田子の月のメインの商売は、一つはギフト市場、もう一つはおやつ市場だと言います。おやつというのは、お茶を飲みながら家庭で食べるもので、ギフトはお使い物として購入し、人様に挙げるもの、恩師に世話になった時に差し上げるものだ。利益を稼いでくれるのは、単価も大きく、利益率もよいギフト商品と言います。それならばギフト商品に特化すればよいかというと、1年中、ギフト商品が出るわけではない。ギフト市場には、波があると言います。3月は卒業、就職、入学、色々の行事があり、ギフト商品が活発化する。お中元、お歳暮の時期もギフト商品が売れる。しかし、ギフト商品が動かない月に、いくらガンガンとコマーシャルをしても売れない。そういう時に動く商品として、おやつとか、季節にあった冷たいもの、何か話題性のあるものを作っていると言います。おやつ商品とギフト商品がうまくかみ合って、どんどんマーケットを広げていくと売り上げが伸びるし、利益が厚くなる、そういう方針で、事業を展開していると言います。
一郎君には、3人のお子さんがいて、長女の方は、聖心女子大を卒業し、米国シアトルのワシントン大学に留学中に、同じく留学中の現在の旦那さんと知り合い、結婚させてくれと、一郎君に挨拶に来たそうです。婿さんは他県出身者でしたが、娘さんを手元から離す気は全くなかった一郎君は、富士市民とまでは言わなかったものの、未来永劫、静岡県にいることを条件に結婚を許し、現在、婿さんは、静岡市に家も建て、静岡県立総合病院の循環器医師として勤務し、4人のお孫さんに恵まれています。一郎君は、万々歳で、しめたと思っているようです。
長男の方は、大学卒業後、コンサルタント会社勤務を経由し、これまでの田子の月の歴史を守る強い決心を持ち、かつ、恐らくは、『頼む、戻ってきてくれ』という一郎君の心をおもんばかり、自社に戻り、また平成29年10月から38歳で、社長になる予定です。一郎君は、彼に大いに期待しています。
次男の方は、同じく経営コンサルタント会社に預けたところ、会社側も彼を高く評価し、御本人もその仕事を生き甲斐とし、50人ほどの会社だが、10年在職し、2年前には営業部長になり、今年、取締役になったそうです。優秀な息子さんを持ったら持ったで、自慢ながらも、かえって富士に戻れなくなった状態でもあり、一郎君も、内心、慌てているようです。とりあえず、自社に戻らなくてもよいから、会社の顧問として支えてくれと言っているそうです。
Q.ロータリーに入会したきっかけは、何ですか。ロータリーについて好きなようにコメントしてください。
妻は地元の人で、結婚は30歳だった。JCには入っていない。ロータリーは、父も幾度となく、誘われたようだったが、入会しなかった。自分は、40歳の時に入会した。長谷川篤君が、高校の先輩で推薦者だ。当時のメンバーは、60~70人だった。いつの時も、会員拡大運動は活発で、今は昔と比べると、メンバーが随分と穏やかになったと思う。以前は、大手の会社の人が多く、強面の人もいて、自分は、加茂喜三さん、後藤直樹さんが怖く、近寄りがたかった。自分の父親は、厳格で、強い性格の持ち主だったが、ロータリーの中でも自分の父親のような厳しい人がいた。ジャトコの社長もいたが、非常な紳士で、一緒に旅行にも行き、和気あいあいとした雰囲気もあった。出席が厳しかったので、休んだ時は、近隣のクラブに行き、メイクアップしていた。好奇心旺盛の長谷川篤君からは、東京のどこそこクラブに一緒に行こうとも、誘われたが、そこまでは余り出かけられなかった。
自分がロータリーの会長になったのは,2001年だった。川口哲君が幹事だった。若い自分なんかよりも、会長になる有資格者の先輩が沢山いたと思った。前年は渡辺英詩君が会長だったが、渡辺君が、この人に会長をと思い声をかけたが、彼らが、いや、まだ忙しい、まだ早いと言い、5人に続けて断られたそうで、ついに、渡辺君が、『牧田君、君が断ったら、自分は辞める、本当に辞める。ロータリーは頼まれたら断ったらだめだというのに、言っていることとやっていることがちがう。頼む方が困るだろう。そういうことが無いように、ロータリーでは断っては駄目だというのに、おかしい。』、と言った。自分は、依頼が来たら受けるつもりでいたので、ましてやそういう経緯があるならば、受けますと言い、会長就任を承諾した。
悪い意味ではないが、いつの時代も、うるさい年配者はいる。また、いなくては困ることもある。自分の会長の時のテーマは、そのうるさ型の年配者と若い世代を、うまく融合させることがテーマだった。自分の年度には、毎月1回、例会の終わった後に、先輩のロータリアンに残ってもらい、例会プラス1時間の先輩会員と語る会を持った。若い人もちらほらと参加した。ガス抜きの効果もあり、結構、その時はみんなが本音を言ってくれた。自分も厳格な父親の指導を受けていたので、ロータリーも同じで、年配者を大事にしようと、うるさくても長幼の序を尊び、『お忙しい所、皆さんに集まってもらい貴重な意見を聞かせてもらいたい』と頼んだ。結構な人数の人が参加してくれた。年配者は、若者から声をかけられると嬉しいし、一方、声をかけないでいると、なんでかけてくれないのかとすねてしまう。年配者からは、なかなか声をかけにくいだろうと思ったので、自分の方から、誰彼、かまわず、『今度、飲みに行きましょう。』と、声をかけた。自分の家、会社でも、良好な人間関係を築くため、いろいろ工夫していたので、そういうことは慣れていた。
長谷川篤君主催の、月1回の『富士を語る会』にも入っている。長谷川君の自分のテナントには、飲食店が5軒ある。それらの店で順番に会費5000円で会合を開いている。会員は80人ほどで、最低でもいつも40~50人は集まる。そのメンバーには、ロータリー会員が20人位いるが、ライオンズクラブのメンバーもいる。異業種で富士を良くしようと話し合っている。長谷川君は、社交的で、自分の交際範囲を広げるのが上手だ。ロータリーに、毎月誰それが入ったというが、実際、長谷川君の努力、彼のツテで、新しい人がロータリーに入ってくることが多い。
自分が長く担当しているロータリー奨学会も、ある日、突然、引き受けることになった。ある時、月末の定例理事会が普段通りにあった。まず理事会を一回終えて、休憩があり、そのあとに理事・委員長会議がある。その休憩時間中に、隣の部屋から、長谷川君の怒鳴る声が聞こえた。後から考えれば、ほんの些細な行き違いだろうが、奨学会の事務の問題で、長谷川君が、『牧田君、俺はもう奨学会の会長なんかしないから、今日からお前がやれ。』と言われた。通常は、役職を引き継ぐ時は理事会で承認されて、それから正式に決まる。しかし、この時は、長谷川君の一言の、『俺は降りる、牧田君、お前がやれ。』、何の事前連絡もなし。ただ、先輩の長谷川君の命令ならば、受けるしかない。それ以来、奨学会の会長を15年務めた。この役職は、毎日忙しいわけではないので、まあしょうがないと思っていた。ただ、忙しい時に、他の行事も立て込んでくると少しきついなと思ったが、知らないうちに15年が経った。
ロータリーについては、何かこれをロータリーでやれ、と言うつもりはない。個人個人、それぞれがロータリーに入ってくる動機、持っている価値観が違う。ただ、人生は生きているうちが人生、華だから、その生きている間を有意義に、楽しく過ごせればよいと考えている。その中の一つがロータリー活動と思う。ロータリーの中にそういうものを見つけられなければ、別の所で見つければよい。所詮、人間は一人の力では生きてはいけない。周囲の人の助力があってこその自分であり、沢山の恩恵を受けて生きている。
ロータリーに入った以上は、全て良い経験と考える。すぐに辞めるならば入らなければよい。入ったら長く続けて、自分の楽しみを見つけていけばよい。燃えるような使命感を持ち、ロータリアンだからこうしなければ、とまでは思っていない。居るだけで良いと思う。みんな一緒、それぞれが何か目的を持って入ってきているが、大多数は勧められて、説得されて、入ってきた。そのうちに何かやっているうちに、楽しさ、こういう人に出会えて、ロータリーは良い所だ、人生のスパイスのようなところだと感じると思う。何も感じなければ、会費払うだけでも無駄だし、時間ももったいない。ロータリーの申し子という人もいる。ロータリー活動を一番の生きがいと感じる人も沢山いる。それを外野から、あいつの考えはおかしい、馬鹿だという資格はない。その人達はロータリーの中で生きがいを見つけたのだから、それは立派だと思う。こうあるべき、こうでなければいけない、と言ってはいけないと思う。団体には最低限のルールはあるが、そのルールもロータリーは、さほど厳しい関係はない。ここに居るだけで居心地が良い、そういう人もいる、それはその人の価値で良い。
そういう自分は、最近は、ロータリーに顔を出すことが出来ないでいる。今は、自社の社長だけでなく、富士市商工会議所の会頭、田子浦埠頭の社長も兼任している。時間が取れない。
いくつかの公職も受けているが、富士市のために粉骨砕身するという大それたことは考えてはいない。欲張らずに、進んでいきたい。お人よしの部分があり、上手くくすぐられると引き受けてしまう性格だ。
ある年齢になったら人生を楽しみたいと考えていたので、今の年齢から考えると、本当は引き受けるならば、商工会議所の会頭はもっと若い年齢で受け、今の年齢で辞めれば理想だと思っていた。商工会議所の副会頭を4期やり、1期が3年なので12年やった。それで終了と、周囲には言っていた。
妻は、みんなと一緒にどこかに行って、上手く立ち回るという交際が得意ではない。自分は、早く、会社の仕事を息子に移し、妻と2人だけで好きな温泉にも行き、家族との時間を大事にしたいと思っていたが、商工会議所の会頭を受けてしまったので、計画通りに行っていない。妻はそれが気にいらないようだ。自分が都合の悪い時に、名代として冠婚葬祭に出てほしいと言っても、妻はそういうことが苦手のようだ。妻が単独で公に出ていくことは、ほとんどない。ロータリーの旅の会、忘年家族会、月見会も、妻一人では行かない。自分が、一緒に行ってくれと頼むと、出てくれる。何とか、妻への孝行をしようと思うが、忙しすぎて、今は2人だけで出かけるような時間は取れない。当分、無理そうだ。
ゴルフは30歳代にさんざん練習場に行き、基本を教えられた。スコアは100を切ったことがない。5年前に脊柱管狭窄症になり、定期的なゴルフはやめたが、商工会義所主催のゴルフが年2回あり、静岡銀行の頭取を囲むゴルフ会に義理で年に3~4回出る程度だ。他には、これという趣味はないが、裏千家茶道の淡交会の支部長をしている。
写真は、ロータリー60周年パーティーでのご夫妻、創業者のご両親、田子の月各店舗の所在地、長く広告として使われた武者小路実篤氏の文とイラスト、田子の月の会合社員総会方針発表、専務との写真、田子の月の代表的なお菓子、餅入り角最中、田子の月本店、インタビューアーが時々買いに行く荒田島店、裏千家の16代家元とご一緒の写真です。
インタビューアー(高井計弘)の勝手な追加記事。
今回、資料として、一郎君のお父さんの牧田良三さんが、著した『田子の月おいたちの記、人々よ自己実現せよ』を頂きました。その中から、印象的な言葉を綴ります。
1.お客に頭を下げることは、私にとって何でもなかった。
2.私はこのようにいろんな人に助けられて商売をやることが出来たのだ。世の中は自分一人では生きられない。
3.私が商売で成功したのは、妻のお陰だった。その意味で、私は全く幸運の男だと思う。同時に妻は大事だと訴えたい。
4.『人生は運と努力以外の何者でもない。運だけでも駄目、努力だけでも駄目』。
努力は自分の力、運だけは自分の力ではどうにもならぬ。だがよくしたもので人生は公平にできている。金があれば有るで身分がよければ良いで、色々な悩みがあるものだ。おやの代にはたいしたことはなくても、子の代にえらい人が出るかも分からない。偉い人の子供に馬鹿が生まれるかも知れない。そう考えると、世の中ぐらい面白いものはない。
5.我が子に望むことは時代が違うから我が子は親の意思で動かしてはならぬ。
もう一つおまけに、『田子の月経営方針』に描かれている一郎君の言葉も、以下に引用します。
1. コミュニケーション貧乏の撃退
知らなかった、聞いていないの絶滅。情報は共有化すること。分からないことは確認する。
もっと会話をしなさい。
2. 変えることはチャレンジから始まる
今までのやり方、又は常識と言い張る前に別の方法にチャレンジ。ダメはなし、どんなことでも試してみる価値はある。チャレンジから改革は始まる。
ついでに、インタビューアーのコメント。
田子の月の餅入り角最中は、私の子供の頃の大好物でした。その後、進学、就職で富士を離れていましたが、帰省するたびに、あちこちに田子の月のお店が出来ていき、びっくりしていました。その間の田子の月の歴史を今回インタビューさせていただき、やはり牧田君は、大きな勝負のできる人物、変化が激しい世の中でも卓越した能力で舵取りができる、それでいて気さくな人だと実感しました。運だけでも駄目、努力だけでも駄目は本当だと思いますが、努力したからこそ、運を引き寄せられるのだと思います。
この様な人とロータリーの例会で、同じテーブルに座り、同じ食事をし、話す機会を、僥倖というのだと思います。
(株)田子の月
富士市今泉380ー1
TEL 0545−52−0001
菓子製造販売