今回の企業報告は、職業分類が、工業品製造の株式会社矢部庄七商店の代表取締役、矢部達樹君です。ロータリー歴23年になります。東海道線吉原駅北口の真ん前の鈴川の会社で、タンクローリーも出入りする歴史を感じる事務所でインタビューさせていただきました。
矢部君の先祖は、源氏と平家の富士川の合戦の時に、川渡しの親分をしていた時代まで、遡れる記録があるようです。岳南地区には、同じ系譜の矢部家が五軒あり、矢部君の家は、江戸時代にわたるまで吉原宿の庄屋として続いていたそうです。明治になり、庄屋の庄に、七を付けて、高祖父が、初代矢部庄七を名乗ったそうです。詳しい由来は不明で、特に七男だったわけではないそうです。昔、吉原本町通りにあった八百半デパート(ヤオハン)、今はラクロスのビルが建つ場所が先祖の土地で、明治時代からは、矢部庄七商店として、米屋を開き、米や肥料を扱っていたそうです。曽祖父も二代目庄七を継承、改名し、米屋を続けていましたが、大正時代の不景気から発生した米騒動で影響を受けたため、米屋の商売以外に、新たに製紙業の富岳興業株式会社を創業したそうです。
矢部庄七商店は、戦前は米、肥料の販売が中心で、石油販売も行っていたそうですが、石油部門は商店の番頭が担当していたそうです。それが戦後、昭和25年に商店は株式会社に編成し、新たに創業とし、石油分門は番頭さん達に任せ、分社化していったそうです。
御祖父さんの三代目庄七が、商店全体と製紙業の富岳興業を継承し、戦前からセロハン紙、パーチメントなどを作っていたそうです。戦時中は、会社の事業は国の統制を受けていましたが、紙の産業は、軍需産業というわけではなく、戦争に直結しない産業だったので、戦後も特に米軍の規制は受けず、そのまま続けられたそうです。工場もひどい空襲の被害は受けず、終戦の混乱時代も、材料の品不足はあったようですが、何とか仕事ができていたそうです。現在の吉原駅前の事務所は、曽祖父さんが建てて約80年経つそうです。吉原駅の貨物引き込み線があり、便利だったそうです。会社は他に、江尾にもあったそうです。
しかし、昭和33年から沼川と潤井川の合流点に、堀込式人工港湾、田子浦港が新たに作られた時に、海水が周辺の地域の地下水に入ってしまう塩水化現象が起きたそうです。製紙業ではその事業に地下水が必須であり、特にセロハン紙は、塩分が入ってしまうと半年も経つと白く濁ってしまい、使い物にならないそうです。それまでは、会社はセロハン紙を海外にも輸出していましたが、この弊害で、事業を清算するしかなくなったそうです。
清算することになった富岳興業の親会社が、先祖からの由来名の矢部庄七商店だそうです。富岳興業を整理する時に、債権者に配当を渡すために、親会社の矢部庄七商店がこの鈴川工場の土地を購入維持し、三代目庄七の御次男だった矢部君の御父さんが、この地に残り、新たに化学薬品を扱う、液体工業薬品基地の会社を創業されています。そして、富岳興業からこの場所が矢部庄七商店と名乗ることになったそうです。御父さんは、御次男だったので庄七と名乗らなかったそうです。
戦中戦後の社会の変化、地域産業の変化を見ていた戦中派の御父さんは、戦争が起きても生き残れるように配給会社が良いと考え、新たに昭和44年に化学工業薬品取り扱い業の会社を創業したそうです。御祖父さんの三代目庄七とは、独立して新たな事業を苦労して起こした御父さんを、矢部君は非常に尊敬しているのがインタビューから伝わります。
公的名称として世間に通用している大事な名前を継ぐのは、直系の血縁者でも難しく、素人が思うほど簡単にはいかないそうです。継承するには、事業に関わる周囲からの賛同、署名が必要で、受け継ごうとする人もそれまで、その名に値する行動を取ってきたかが、評価されるそうです。名乗ってもよいと思われる年代になった頃に、自分で周囲の人の所を挨拶周りし、賛同してくれるようお願いする。自身の一族の関係者ではなく、血縁者ではない富士地区の名士達からも認められることが必要だそうです。社会的に特別な名前だから、あの人ならば、改名してもよいのではないかと言われてできるもので、御祖父さんは、本来の名前は一郎だったのですが、改名が認められ、庄七になったそうです。
矢部君のお父さんが創業した会社は、初めはJRの前身の日本国有鉄道の貨車で薬品の運搬、取り扱いをしていたそうです。インタビューアー(高井)が、化学薬品に疎いので、以下のように詳しく説明していただきました。
主力製品の苛性ソーダは、汎用性があるので、製紙産業のみならず、各産業界の化学分野に使われています。大きな需要は、発電するとき石炭・重油ボイラーを使用しますと、燃焼時に亜硫酸ガス・亜硝酸ガスが出て来て、それを取り除くために苛性ソーダが必要だそうです。また、苛性ソーダは、排水のpH調整・設備の洗浄などに使用され、各化学反応用にも使うので製薬会社でも必須の薬品だそうです。
日常生活でも苛性ソーダは、身近に存在し、漂白剤として使われる次亜塩素酸ソーダの安定剤に、少量の苛性ソーダを使う。つまりは、一般の人が知らないうちに使っている薬品だそうです。
矢部君の会社は物流会社なので、苛性ソーダの生産そのものは行っていません。国内メーカーが作った苛性ソーダを田子浦港まで船で運ばれてきます。田子浦港から会社までは地下埋設パイプラインがあり、それを会社の劇毒物貯蔵タンクに保管し、さらにタンクローリーや、コンテナに小分けして配達するそうです。神奈川の西部、県内全域、山梨の南部地方までを、配送エリアとしてカバーしているそうです。
蒲原の日本軽金属のケミカル部門が苛性ソーダを作っているので同様に取り扱いますが、他には吉田町の松林工業薬品株式会社と県内では3社だけです。
御父さんは、最初は液体薬品一般、苛性ソーダや、硫酸を扱ったそうですが、これらの商品は大量にないと仕事が成り立たないので、船で輸送できる苛性ソーダが中心になったそうです。
まず、オーストラリアなどの海外の塩田から塩を輸入し、千葉、名古屋の工場で、その塩を水に溶かして電気分解すると、苛性ソーダと塩素が生成します。つまり、苛性ソーダは、元々、塩から作られます。作られた塩素は、塩化ビニル樹脂の原料になり、日常生活品として多くの用途があります。一方、苛性ソーダは、塩化ビニル生成中の副生成物で、市況により、塩素が必要な時や、苛性ソーダが必要な時があり、そのバランスで成り立っている産業だそうです。苛性ソーダは劇毒物であり、事業としては、おいそれとできる仕事ではなく、会社は劇毒物の製造業と販売業の免許許可資格を持っています。また、液体の劇毒物のタンク、営業危険物倉庫、一般営業倉庫を保有しています。
この業界も、当然ながらこれまでの日本経済のバブルや、リーマンショックの影響も受けるそうです。基本的には顧客は製造業が主で、例えば富士市の製紙業界では、これまで使用していた燃料を重油ボイラーからガスボイラーに替わっているそうです。ガスは排脱が要らないので、それに付随する苛性ソーダも大量には使用しなくなり、そのため苛性ソーダの需要が落ちているのは事実だそうです。
その部分を補うのが営業倉庫、貨物輸送で、御父さんから事業を継承した矢部君が、この分野の顧客を開拓し、国内だけではなく、海外からの海上コンテナを会社に輸送し、荷役保管業務、営業区域に配達する仕事を始め、事業を改革維持しているそうです。海外からの物資は色々なものを扱い、主として工業用の原料を保管しているそうです。富士地区の工業が円滑に回るように色々な資材を保管しています。すなわち、一般の人には、何に役立っているのか、わからないかもしれないが、製造業が円滑に仕事を回すことが出来るように各種の資材を運ぶ、黒子の役割、『縁の下の力持ち』的な仕事だと言います。会社で一番努力をしているのは従業員の教育で、取扱い品目が多く製品ごとに扱い方が違うので教えるのが大変だと言っていました。
矢部君は、この事業を始めた御父さんが苦労している姿を間近で見ていたので、将来は、長男として手伝おうと子供の頃から思っていたそうです。吉原商店街の生れで、小口頼一君と、同じ町内で、1学年下です。昭和30年、40年代と商店街は、非常に賑わっていたことは、同世代以上の方は、共有している思い出と言います。当時、今ほどは、子供の好きなお菓子は一般の店では作っていなかったので、矢部君の家で、御母さんがホットケーキや団子を作ると、近所の子供が来て食べに来て、遊んでいったと言います。また、吉原2丁目のフジイチ薬局の近くのお寺の息子さんと小学校の同級生だった矢部君は、そこで遊んで、境内に田子の月の売店があり、お小遣いがあるときは団子を食べていたそうです。
中学校では、特にクラブには所属せず、小学校から始めたボーイスカウト活動を続けたそうです。
清水東高校理数科に進んだ後も、ボーイスカウトの日本大会、朝霧高原でのジャンボリー世界大会に参加したそうです。大会参加のため受けることが出来なかった受験対策の夏期講習を、担任の先生が、特別に個人授業をしてくれたと言います。当時はボーリングブームで、学校では一応禁止になっていたため、学校から離れたところのボーリング場に友人と出かけたところ、やはりボーリングをしに来ていた先生と遭遇したものの、見逃してくれたそうです。静岡の日本平動物園が出来たばかりの時で、高校裏の東名高速清水バス停から友人と良く出かけたそうです。高校3年時には、サッカー部がインター杯で優勝し、応援に行ったそうです。
高校に入っても、進路については、御父さんから会社を継げと言うプレッシャーはなかったそうですが、、御父さんの事業継承以外の道を選ぼうとは、全く思わなかったそうです。当時、希望者が増えていた医学部に進学しようとも思わなかったそうです。その理由を尋ねたところ、家の苗字が、『医者に向かない、矢部医者(やぶ医者)だから』と、笑いながら言いました。特別な学部、学科は考えていなかったが、理工系に進むことは決めていたそうです。いずれは実家に戻るので、大学は富士市から一番遠い場所で生活したいと、北海道大学を志願し、第2志望は琉球大学だったと言います。
北海道大学の学部は、大きく理系と文系に分かれ、教養時代を過ごした後、本人の希望と学業成績で進路が決まり、2年目で専門学科を選ぶ時代だったと言います。矢部君は、この時には御父さんが製紙業から化学薬品卸売業に事業を転換していたので、化学系の学部を選択しました。
理学部化学科に進み、トリカブトの毒成分など天然物やジャガイモシストセンチュウ(学名Globodera rostochiensis、以下「線虫」という)のふ化促進物質の構造解明・合成などがメインテーマのゼミで、勉強していました。線虫は、植物防疫法で定められた農作物害虫であるため、発生地域では、種ばれいしょの生産・流通が制限され、防除対策のための労力・金銭的コストも大きく、さらにさまざまな不利益をもたらしています。生活史の中にシストという段階を持ち、シストとはメス成虫が変化したもので数百もの卵が入っているそうです。シストの中で卵は長く(一説には10年)生存し、それが孵化するとまたジャガイモの根に寄生し、卵を生むというサイクルを繰り返すそうです。
ふ化促進物質を商業化できれば、夢の農薬になったと言います。北海道はジャガイモが主産物なので、線虫による虫害を防ぎたかったので所属のゼミは研究を始めたそうです。虫が卵を産んでいる土壌に、収穫が終わった秋に、線虫のふか促進物質を散布する。すると線虫は春が来たと思い、ふ化を始めるが、実際は冬に向かう時期であり、春は来ていないので、線虫は死に絶える、その物質を研究していたそうです。
札幌は、楽しい街、良い街で、学生時代は楽しかったと言います。思い起こせば、特にクラブには所属せず、なぜか友人もそうだったのでスキーはしなかったそうで、学校と飲み屋の往復だったと言います。スケートはオリンピックが行われた真駒内競技場に行ったが、氷が良すぎて滑りすぎて怖かったと言います。北海道は山も多いのですが、登山はせず、ウイスキーを飲みながら眺めていただけらしいです。
卒業後は、就職が良くない時代だったこともあり、そのまま家に就職したそうです。学生時代の勉強は有機化学分野で、実家の仕事は無機化学なので、直接の関係がないが、薬品の扱いは役立ち、実家の仕事はすんなりと受け入れられたと言います。
矢部君の社会奉仕、青少年育成の活動歴は、非常に長い歴史があります。彼自身、幼少期からボーイスカウトで活動していました。月に1回、吉原の聖母幼稚園の教会に集まっていたそうです。吉原を離れて大学に進んでも、ボーイスカウトからローバースカウトになり、吉原地区と北海道のローバースカウトを兼務し、北海道千歳のジャンボリー世界大会にも参加したそうです。就職し、吉原に戻った後も、ボーイスカウトのリーダーを務め、集会で子供の教育活動を担当し、冬と春にはキャンプをしていたそうです
矢部君は、30歳で結婚しています。30歳までボーイスカウトに所属し、その後は、青年会議所(JC)に入り、主に青少年育成関係を担当し、キャンプなどの活動を担当したそうです。JCには、3つの全国大会があり、持ち回りで各地で開かれる全国大会と、夏に東京で行われるサマーカンファレンス、京都で行う京都会議があり、京都会議は好きで毎年参加していたそうです。その縁で今も京都旅行が好きだと言います。
矢部君は40歳でJCを卒業し、ロータリーに入会しています。この年に高橋堯昭君がガバナーに就任し、当クラブで地区大会も開いた年で、印象深いと言います。
お子さんを授かった30歳後半から40歳代は子育てを第一に考え、その時間を大切にしたそうです。お子さんは女、女、男の3人です。JCの最後の頃には子供3人で手がかかるので、子供をお風呂に入れるため例会の途中で一度抜けて自宅に戻ったりしたそうです。子供とは毎日風呂に入り、おむつも替えて、家族旅行でディズニーランドや、あちこちに出かけたそうです。車種には趣味はないが、車の運転が好きで、かつての『どこまで行っても高速道路千円』時代は、新潟県の村上市や、石川県の金沢、その先の輪島にも出かけたそうです。
50歳代は、子供たちが、進学など、それぞれ自宅から離れて暮らすようになり、奥様との旅行が趣味になっているそうです。会社が劇物を扱っているので取り扱い資格者がいないと仕事が回らないため、矢部君自身は長期の休暇が取れず、海外旅行まではなかなか難しいそうです。町に出て人を観察するのが好きなので、お気にいりの場所は、京都、東京で、何が今流行しているのか、こんなものが売れている、こんな服が流行っているなどを観察するのが楽しいと言います。奥様はステンドグラスの趣味を持っています。
息子さんは、情報関係の勉強をしており、いずれ継承してくれることを期待していると言います。
Q.ロータリーに入会したきっかけは?これまで、どのように過ごしてきましたか
三代目の矢部庄七が、吉原ロータリークラブの創立メンバーだった。現メンバーでは、植田剛君が覚えてくれていると思う。ロータリーには、40歳の時に長谷川篤君から誘われた。祖父もロータリーのメンバーであり、父もライオンズのメンバーだったので、特に抵抗も違和感もなく、そのままJCから入会した。大学卒業後、会社で働いていた時に、祖父がロータリーに出席する時は、行きは植田君が迎えに来てくれ、帰りを自分が迎えに行ったりした。
ロータリーに入会して、印象的なことは、なぜこんな年配の人達、父親と同じ年齢の人達が、若い自分よりも沢山お酒を飲むのかと、びっくりした。自分が入会した時は、事務局員よりも若いメンバーが入ったと話題になった。木村さつきさんが1学年上で、家も近い人だった。
各委員は一通りした。親睦委員長はしていないが、特に大変と感じたものはなかった。担当になったら、自分でどんどんやりたいことを変えてきた。
例えば、会場監督は2回担当した。1回目はタブーに挑戦して、例会は、全員の席がなくてもいいのではないかと考え、毎回くじ引きで、席を決めた。当時メンバーは今よりも多く、80人ほどいたが、出席率は100%ではないので、例えば80人中、20人休んでしまうと、空席が目立つ、それがもったいなくて嫌だった。毎回全員が出席するわけではないので、席が余るのならば、初めから全席を用意せずに、くじ引きでの席順にした。なるべく席を詰め込むように、くじを引いて、どんどん詰める感じにした。1年やったがうまくいかなかった。どうても、知っている人同士で勝手に座ってしまい知らない会員と話をしなくなってしまい失敗だった。
もう一つの改革は、昔は会長、副会長が同じ席に座り、反対側のエレクトーン側の席に幹事と副幹事が座っていた。なぜ、そんな席の配置なのかと思い、会長と副会長の前のAテーブルに、幹事と副幹事と会場監督を並べるように座らせた。会報、親睦委員長も、発表する人は一番前に座った。初めから、そこに座ればいちいち呼ばれて出てこなくても良いと思った。それに会場監督と幹事が並んでいれば、会の進行が、時間を見ながら自由になる。それが良いと言うことで、今の形になっていると思います。
幹事は50歳の時で、小林源吾会長だった。
高校生の奨学生のアドバイザーは2回担当した。これも1回目と2回目で形式が違った。牧田一郎君が結構様式を替え驚いた。昔は奨学生の家まで行き、奨学金を渡していたが、今は学校に行き、アドバイザーが揃って会って、奨学金を渡す形になりました。昔は、高校生のレポート提出もありませんでした。代わりに、アドバイザーのロータリーメンバーが、こんなことを奨学生はしましたと報告書として書いていました。今は奨学生自身が書くようになり、牧田一郎君は頭の良い人なので、色々改善して素晴らしい人だと思います。。
旅の会は、平日は休めないので、幹事の時だけ1回参加した。平日、昼の時間の外出は、1~2時間ならば、どうにでもなるが、半日以上は仕事の段取りもあり大変だ。
現在、裁判所の調停委員をしているが、それは2時間ほどなので、その時間は都合をつけることが出来る。しかし、午前と午後で4時間してくれと言われると厳しいので一日一件にしてもらっている。調停委員は木村昭雄君が、彼の後任に自分を推薦してくれたので引き受けた。約15年位、調停委員をしている。社会奉仕の一環なので、こういう仕事も良いと考えている。社会奉仕を続ける心は、何かと質問されるならば、仕事以外のことで、少しでも社会の役に立ちたいと言う考えだ。それに基本的に人を見るのが好きで、その経験が自分自身の勉強になっている。
ロータリーに特に思い出はあるかという質問も、自分には不思議な質問だ。何故ならロータリーは自分にとって当たり前の日常生活なので、特別なことはない。日常に組み込まれているので、ロータリーは感動ではない。何かをしたと言うことではなく、毎日の行動だ。去年、何の委員会をしたと言うことではない。普段の生活で、ロータリーのように毎週会って話をする人は、それほどいない。ロータリーはみんな考え方が違うので、それが面白い。自分の考えが正しいのではない、会社にいると自分が正しいと思ってしまう。会社の大小は関係ない、職種も関係ない。みんなと付き合えば、考え方が違うことが良くわかる。ロータリーの中で、何かをやろうとしても、きっと誰かがそれは違う、こうした方が良いと言う人がいる。ロータリーに正解はない。
他のクラブに比較すると、当クラブは、メンバーの老若の垣根が低いクラブだ。年功序列はあるが、それはどこの団体でも同じで、当クラブは、その年功序列さえ、差が少ない方だ。年の差があっても宴席で一緒になれば和気あいあいとなるし、当クラブは年代差を感じにくい。ロータリーは、会社の大小は関係ないのが理念だと思います。
個人的にしたいことは、京都の旅が好きで、妻と旅行するのが好きだ。お寺も、季節、季節の花を見ながら出かける、4月には桜、5月はカキツバタ、藤がある、6月はアジサイがきれいだ。京都のお祭りには残念ながら平日に行けないこともあり、まだ行けていません。
今年は海の京都をテーマに、伊根町・天橋立に行った。繰り返し出かける有名どころは、金閣寺、三千院、、清水寺、知恩院だ。龍安寺は雪の季節が良い。その境内にある西源院の豆腐を食べる、そこから庭園が見え、鏡容池を見るのが良い。
週末の一泊旅行や、日帰りでは、岳南鉄道吉原本町駅から、吉原駅へ、そして静岡駅に向かい、午前6時静岡発こだまに乗れば、京都に8時に着く。最近は、大原の宝泉院がお気に入りで、水琴窟、額縁絵の庭園、五葉の松が良い。妻と息子、娘と行った。上賀茂神社の水路もお気に入り。花のお寺として有名な西京区の勝持寺にも行った。秋に行くと紅葉がきれいな寺だが、行ったその時は青紅葉だった。昨年は伊藤若冲美術展関連で相国寺の展覧会に行った。善峯寺も有名な松があり、アジサイもきれいでお気に入りだ。今年は、上賀茂神社で正月7日に七草がゆを頂いた。神馬もいて、それを見た。
学生時代を過ごした北海道にはその後は、ほとんど行っていない。
写真は京都旅行のご夫妻、会社の事務室、会社の外観、それにインターネトからのジャガイモシスト線虫です。
インタビュアー(高井計弘)の言い訳
矢部君は、私の小学校、中学校、高校の1年先輩です。ほぼ同じ時代の人間ですが、私とこんなにかけ離れている人がいるのかと思うほど、立派な人格者です。
子供の頃からボーイスカウトに所属し、歴史ある家庭内での継承の大事さを教育され、さらに、かの有名な「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の北海道大学在学中もローバースカウトで、青少年教育を通して社会奉仕活動を続け、30歳からは青年会議所に所属され、40歳からはロータリーメンバーとなり、更には裁判所調停委員として15年以上活躍されている、まさに社会貢献が日常生活に自然に入り込んでいる方です。私とは、いわゆる『ものが違う』が当てはまる人です。
また、『ロータリーでの思い出は何ですか?』の私の素朴な質問に、『ロータリーは特別な事ではない、毎日の日常の事だ』と、優しく一喝された思いでした。
今更ながら、社会奉仕活動に消極的な私が、改めてウイキペディアなどから、ボーイ及びローバースカウト活動の豆知識を仕入れました。
ボーイスカウトは、健やかな子どもを育成する世界的な運動で、スカウトとは、「先駆者」のことで、ボーイスカウトとは「自ら率先して幸福な人生を切り開き、社会の発展の先頭に立とうとする少年」という意味を持っています。スカウト運動の目的は、青少年が個人として、責任ある市民として、地域、国、国際社会の一員として自らの肉体的、知的、情緒的、社会的、精神的可能性を十分に達成できるように青少年の発達に貢献することです。ボーイスカウトの活動は、各年齢層に応じ5 つの部門から構成されています。
小学校1年生の直前の1月〜をビーバースカウト、小学校3年生4月〜をカブスカウト、小学校6年生4月〜をボーイスカウト、中学校3年生9月〜をベンチャースカウト、18歳以上〜25歳を ローバースカウトと言います。
ボーイスカウト運動には次のような特徴が上げられます。
1.青少年の自発活動であること
2.青少年が、誠実、勇気、自信、および国際愛と人道主義を把握すること、健康を築くこと、人生に役立つ技能を体得すること、社会に奉仕できることの人格・健康・技能・奉仕を4本柱としていること。
3.幼児期から青年期にわたる各年齢層に適応するよう、年齢に応じた部門があり、それぞれのプログラムが一貫していること、等があげられます。
ボーイスカウト教育が他の青少年団体と異なるところは、その教育プログラムにあり、それは、「ちかい・おきて」の実践、班制教育、進歩制度、野外活動を取り入れていることです。生命を尊重する心、仲間と話し合って協力する心、モラルや正義感、自然や美しいものに感動する心などが、子どもたちの「生きる力」の基礎となります。社会奉仕活動や、自然の中での体験などを多く取り入れた、ボーイスカウトの様々な活動をとおして、青少年の、健全な心と体の育成への貢献を目指しています。
ローバースカウト(Rover Scout、またはローバーリング)は、スカウティングにおける20代前半までの青年のための国際的な奉仕プログラムです。ここにおいて「ローバー」とは人生の旅人という意味で、ローバーの集団は「ローバー隊」あるいは「ローバークルー」と呼ばれます。ローバーリングを「野外活動と奉仕の友情」と呼んでいます。活動の目的は、スカウト運動への奉仕、地域社会への奉仕、技能の幅を広げることによる個人としての成長、連帯、社会的活動、野外活動、文化的活動を楽しむことと言います。また、ローバーリングは次のよう点で人生を豊かにする体験を提供するとも言います。すなわち、人格と知能、手仕事と技能、体力と健康、他者への奉仕、市民性です。
“ローバースカウトは人生の準備であるとともに、人生の追求である。”とも言っています。
株式会社 矢部庄七商店
富士市鈴川本町12−35
TEL 0545ー33−0780
工業薬品製造