今回の企業訪問は、公益財団法人復康会理事長石田多嘉子君です。ロータリー歴は今年で14年です。
石田君は、昭和47年に、法人の一つ、沼津中央病院に就職しました。その後、平成12年に鷹岡病院に転勤し、翌年院長となり、「地域で一番信頼される精神科医療機関として存続する」よう、病院を改革しています。
復康会は1926(大正15年)に株式会社沼津脳病院として産声を上げ、終戦直前に財団法人になったものの戦火で病院は全焼し、いったん閉鎖を余儀なくされました。戦後の物資不足の中、多くの人の病院再建への努力、寄付により昭和24年に沼津脳病院は再建され診療を再開しました。その後、組織は時代の流れを先取りする医療を展開して来ました。平成24年公益財団法人復康会となり、昨年創立90年を迎えました。現在は沼津中央病院、沼津リハビリテーション病院、鷹岡病院、の3病院、大手町クリニック、あたみ中央クリニック、富士メンタルクリニックの3診療所と、さらに訪問看護ステーション、サポートセンター、グループホームなどの精神福祉分野の事業を担う社会復帰事業部を擁し、従業員760人余の組織です。法人復康会は、「愛・信頼・貢献」を基本理念とし、1)人間愛に基づき、患者等の視点に立った医療を行う、2)法人内外の連携を深め、地域社会の医療・福祉へ貢献する、3)働き甲斐のある職場をつくり、人材を育成する、4)健全な経営を目指す、を基本方針としています。
精神の病気には、気分障害、不安障害、パニック障害、適応障害、統合失調症、発達障害、認知症等々、様々な病気があります。我が国では1938年に自殺者が3万人を超え、以降、3万人(交通事故死の6倍)を超える状況がずっと続いていました。自殺した人の大多数が生前何らかの精神疾患に罹っていたとのデーターもあります。精神疾患は、決して特殊な病気ではなく、誰にでも起こりうるものです。富士市医師会が行政とタイアップして始めた、働き盛り世代のうつ自殺予防対策富士モデル事業「お父さん、ちゃんと眠れてる?」の睡眠キャンペーン活動は、その後、全国の自治体でも採用され、メンタルヘルスの話題が人々の関心を集め、数年前から自殺者数は2万人台へと、減少傾向がみられています。
一方、我が国では、65歳以上の高齢者が年々増加の一途をたどり、それにつれて認知症を発症する人も激増しています。認知症高齢者は2005年の時点で169万人、2025年には323万人に倍増すると推測されています。精神疾患も、糖尿病や高血圧症といった身体疾患と同様に、早期発見・早期治療が非常に重要ですが、認知症も然りです。最近は高齢者が引き起こす交通事故が毎日のようにメディアに取り上げられています。
鷹岡病院では“必要な人に、必要な時に、適切な医療の提供”をモットーに、富士圏域の精神科救急の基幹病院として、日・祝日の終日及び平日夜間の精神科救急を担当し、早期治療を実践しています。2009年には、全国でもまだ数少ない精神科救急入院料病棟(スーパー救急病棟)の認可を取得しています。また認知症についても、静岡県東部では唯一の認知症治療病棟を立ち上げ、妄想や幻覚、衝動行為といった、自宅や施設で対応困難な人を速やかに受け入れ、集中的な治療とリハビリテーションを実施し、短期に症状の改善を図る努力と共に現在は、認知症疾患医療センターとして認知症の早期診断・治療・啓発活動にも取り組んでいます。病棟の機能分化を進め、富士駅近くの富士メンタルクリニックを含め外来機能の充実、訪問看護、デイケアの充実を図り地域で生活する利用者の方を支援していく専門的精神科医療の提供を目指しています。
石田君は、愛媛県の、今は四国中央市となりましたが、昔は伊予三島市の出身です。瀬戸内海に面した香川県との県境の街で、富士市と同じく製紙業が盛んな街だそうです。ご本人は、ごく普通の家庭と言われますが、お話を聞くと、教育者のお父様は、戦前から非常に進歩的な考えを持ち、子供の意思を尊重し、責任を負えるなら好きな道を選んでよいと育てあげ、かつ男女平等を当たり前と考えられている、お家と思われます。
石田君は、5人兄姉妹の4番目で、残念ながらお兄さんは9歳の時交通事故で亡くなられ、石田君はその後に生まれているので、お兄さんの記憶は無いそうです。姉妹は、それぞれ教師、美術関係、栄養士など好きな道に進学し、全員他家に嫁いだ為、実家の姓は誰も継いでいないけれども、妹さん夫婦が実家で生活し、両親の面倒を見てくれたので本当にありがたかったと思っているそうです。
実は石田君は3~4歳の頃、原因不明の大病(ポリオだったらしい)にかかり、左半身の麻痺や命の危険もあり「一度死にかけた命」と聞かされていたので、今も「いただいた命」精一杯生きればいいとの思いだそうです。
小学校低学年の頃は体が弱く、家で手当り次第本を読む生活で、その後も読書の習慣は続きけっして勉強家ではなかったけれど学力の基礎にはなったそうです。高学年になってからは、元気で野山を飛び跳ねていたそうです。高校は一番上の姉さんの勧めもあり、姉さんの家に下宿して、当時進学校だった県立新居浜西高校に進学、誰も知った人のいない世界では、待つよりも自ら積極的に出ていくことで、人との付き合いが始まることを学んだ気がするそうです。医学部受験は姉さんたちの勧めもあったり、今思えば小さい頃病弱でよく往診を受けていたので、医療に親近感があったことも選んだ理由の様な気がするそうです。受験初年度は、結構安易に考えていて見事に失敗、受験地の移動遠征で点滴や入院騒ぎになり、同伴していたお母さんは、大学より命の方が大事といい、もう受験はさせないといったそうです。石田君は一年浪人しても進学したいと希望し、ご両親は、東京での予備校生活を許してくれたそうです。
翌年(昭和36年)横浜市立大学医学部に入学、同級生は女子5人を含め45人だったそうです。大学5年生の頃から先輩のいる総合病院精神科で1か月遊ばせてもらったり、精神科に興味を持っていたそうです。精神の病気になると社会から差別されていることを何となく感じ、その理不尽さを感じ、その分野に関わりを持ちたいと思ったそうです。
当時は、大学6年を卒業しても、1年間は無給のインターンという実務研修があり、それが終わらないと国家試験も受けられない制度だったため、インターン廃止のための闘争が行われていて、上級生は医師国家試験をボイコット、石田君も国会へのデモ行進などに参加したそうです。現在のような卒後すぐ国家試験を受け、医師として、給料を貰いながら研修を受けられる制度は当然とはいえ夢のような世界だそうです。
石田君は、昭和42年卒業と同時に大学の2年先輩の旦那さんと結婚し、横浜市立大学の精神神経科医局に5年間在籍後、昭和47年に財団法人復康会、沼津中央病院に赴任。沼津に転居し長女、次女は病院の院内保育所から認可保育園に通所、沼津で生まれた長男とともに、患者さんに頭を撫でられながら育ったと言います。
当時は女性医師で3人の子育てをしながら仕事をすることは難しいのではと想像していたインタビューアーの質問に、結婚するなら、子育てをしながら働くのが当然と思っていたので、自分が特に女性医師の先駆者とは思っていないと言われました。 お子さんは、長女は医師以外の道を選択し、次女と長男が医師になっているそうです。長男が高校を卒業後に、沼津から住居を大磯に移し、その後は大磯から通勤しているそうです。
沼津で長く精神科医としてキャリアを積んでいった石田君は、精神科医療が好きと言い、他の科を選択する気持ちはなかったと言います。基本的に人間に差はないと思っていて、病気の症状に左右されている状態の時を除けば、皆普通の人、人生を一緒に歩いている感じといいます。精神医療の難しさ、関与するものが、社会の仕組みだったり、個人の育ってきた家庭など、どうにもならない事が多い事も解ったうえで、人の育つ力を信じている。治療すべきところはきちんと治療して、その人らしい人生を全う出来るようお手伝い出来れば、精神科医としてとても嬉しいといいます。
平成12年に現在の職場、鷹岡病院に転勤。同じ法人でも、病院の持つ雰囲気や組織の持つ方向性には独自のものがあり、又地域の特徴もあって最初は戸惑いもあったといいます。翌年院長に就任して、病院の姿勢として「治療の必要な人に、適正な治療をして、出来るだけ早く社会に復帰していただく」ことをモット―に、必要な病院の建築やスタッフの充足、社会で生活する患者さんの状態が悪くなった時には、何時でも受診受け入れが出来る体制づくりなど、最初の6~7年は大変厳しい日々だったといいます。圏域の精神科救急基幹病院となり、高規格のスーパー救急病棟の運用も軌道にのり、精神科病院としての機能が果たせる状態になってきたと思うと共に、協力してくれた職員に本当に感謝しているそうです。
Q・ロータリーに入ったきっかけは何ですか、その後、どう過ごしていますか?
ロータリーは、平成14年に当時渡辺整形外科病院院長の渡辺英詩君に卓話を頼まれたことがロータリーを知る切っ掛けになったようです。それまでは、ロータリーは、お金持ちの集団、一種のエリート集団と思いあまり関心はなかったとのことです。それでも精神医療への偏見を解消するためには、精神医療をきちんと知ってもらうこと、精神科病院を認知してもらうことの大切さが解っていたので、卓話はいいチャンスと思えたそうです。
当日例会場では、男性会員だけで少しびっくり、後で伺ったらロータリーもそろそろ女性会員を入れなければいけない時期に来ていると思うと話されたそうです。卓話の2年後、平成16年に渡辺君達が突然病院に来られて「今回初めて女性会員の入会を勧めることになったので、是非入ってほしい」と勧められた。法人の許可も得られ、例会日が木曜日で自由がきく日だったので、長岡路子君、井出和子君と一緒に入会した。しかし、他の職員が一生懸命仕事している時に、病院を抜けるには最初は抵抗があったとのことです。
ロータリーの仕事は色々したが、プログラム委員長の時が一番神経をつかった。まだまだ地域の人を知らないし、遠方の人に卓話をお願いすることも難しいので、最初は引き受けることを渋っていたが、ロータリーでは与えられた役割は断れないと言われ引き受けることになった。委員の皆さんには、市長には予約をしたとか、富士ニュースの社長には頼んだよとか助けられた。自分自身でも、市民講座に参加したり、新聞から情報を得る等努力はした。そういう意味では、いい体験をさせてもらったと思っている。
インタビューアーがなんでそんなに石田君は元気なのかと質問したが、「元気と見えるのは何故だろうと考えたら、基本的にはミーハーで好奇心が強いからだと思っている」ということでした。
次々年度のロータリーの会長になる予定については、最初田中祐君から声をかけられたが、富士市に生活していないこと、会長の器ではないとの思いもあり断った。会長職の責任が果たせるか?自分の脳が機能しているか?健康状態はどうなのか?年齢リスクも大変高いと思っていたが、次期会長の小口頼一君に「皆が助けます」と言われ、先輩達の話もお聞きしたうえで「皆に助けてもらいながらチャレンジしてみることも、楽しいかもしれない。」と。先輩達の経験と知恵、若いメンバーの発想や行動力に期待して頑張ってみたいと思っている。
旧東海道53次のウォーキングを始めたきっかけは、全くの好奇心から。世界スリーデイマーチが世界で行われていて、日本では東松山市で開催されていて、その広告をたまたま見て、面白いと思って参加。初日に10kmコースに参加し、その夜熱発して、寝込んでしまい心配した夫が「これは続けられない、帰ろう」と言い、1日だけしか歩けなかったが、それが歩くことに関心を持つきっかけになった。翌々年旧東海道400年祭の一環で、日本橋と京都三条大橋を同時に出発、浜名湖で合流、エールを交換後またそれぞれの目的地に向かって歩くという企画だった。夫と一緒に小田原から参加。1日約30km歩くことが、どんなことかも考えずに興味本位でスタートし、それでも1回2日の工程で、小田原から藤枝までは歩いたが、ひたすら死にそうな思いで歩くことは、あまり楽しくなくて中断してしまった。その数年後に鷹岡病院に転勤し、さらに数年後旧東海道歩きを中断していることを思い出し、夫とも相談、再チャレンジを決めた。天気がよければ、「今日は歩こう」になったり、ビール工場見学して「ビール飲んじゃったから今日はここまで」という具合で、まことに勝手気ままに歩き、思いがけずその土地の方との交流が生まれたりしながら、昨年秋京都三条大橋に到着、492kmを完歩した。今は、琵琶湖一周自転車の旅に触発されて、琵琶湖一周歩きを始めている。「2年もかければ、歩けるでしょう」と大変安易な発想である。海外は以前は時々出かけたが、夫がもともと飛行機嫌いなので、最近は控えている。
京都へは、毎月通い始めて5~6年になる。京都駅に降りると「戻ってきました」感があり、一方では非日常生活感もある。朝起きて、あの店の美味しいコーヒー飲んでくるような。何故京都が好き?それは平安の昔から今現代の世界への繋がりが実感出来るからと思っている。お寺や仏像も好きだが、南座で歌舞伎みたり、能や花街の舞を見たり、コンサート行ったり、行きつけの店が何店かあり、「また来ましたよ」と挨拶したりを楽しんでいる。その他、沼津の牧水会のメンバーになって20年余で、牧水に因む「ほろ酔い学会」に参加したり、落語の会を運営するNPOのメンバーとしてボランティア活動したりでけっこう楽しみ事が多く、人脈も広がっている。基本的には、人が好きなんだと思う。
写真は、病院前の石田君。沼津中央病院、鷹岡病院、鷹岡病院外来の中待合・診察室、相談室・心理室、待合・受付、精神科救急病棟ホール、精神科救急病棟の1床室です
インタビューアー(高井計弘)の言い訳
私も同じ医師で、まだまだ若輩で、精神科分野への理解が不十分でお恥ずかしいインタビュ―でした。なかなか一般の人に理解されにくい医療分野で長年先頭に立って活躍されてきた先生にはただ頭が下がるばかりです。先生の思いが、皆さんにきちんと伝わるか、不安な文章になってしまい、申し訳なく思います。私も先生のような泰然自若とした人間になりたいものです。
公益財団法人・復康会 鷹岡病院
富士市天間1585
TEL 0545−71−3370
医療関係