今回の企業訪問は、株式会社井出組代表取締役、井出勇次君です。ロータリー歴13年です。
会社の事業内容は、あちこちで見かける『じつは、井出組!』のロゴにあるように、土木工事全般を扱っています。道路工事では、道路の新設・改良・維持工事、橋梁工事等、河川工事では築堤護岸・河川維持工事等、海岸工事では、堤防護岸・養浜工事等、砂防工事では、砂防堰堤・斜面対策工事等、他にもダム工事、舗装工事、公園工事、下水道工事、水道設備、電気設備等、社会インフラの多くを手掛けています。建築分野では官庁、民間の双方の建築工事を扱っています。そのほか、不動産関連事業・売買・賃貸備並びにその仲介管理事業、土地有効活用提案事業を行っています。
井出君が社長になり発信しているメッセージは、『富士市で一番、働きやすい会社にしたい。』です。
『社員が自分の子供にも誇れる会社であり、その子供達が「井出組で働きたい。」と言ってくれる企業であることを目指している。』と言います。
それを有言実行するために、井出君が心がけていることはまず、彼自身が「約束を守ること」、そして、「社員の話は最後まで聞くこと。」だそうです。社員からの提案を「それは無理だ。」と一蹴するのは簡単ですが、社会の変化に対応できる柔軟な企業になるためには、経験値を捨てることも時には大切だと、彼は言います。日頃から、管理職に対しても「部下の言うことは、まず聞くように。」と指導しているそうです。
それが功を奏してか、今では社員の方から様々な提案をし、また実践してくれていると言います。
彼は、経営者として社会動向や行政決定をただ座して待つのではなく、「まずは行動!」をと、肝に銘じているそうです。彼は、井出組を将来にわたり、社会に貢献できる会社にすべく、今後もさらなる財務体質の強化、技術力の向上に努め、発注者である顧客はもちろん、社員とその家族、外注先や協力企業の社員達とその家族、そして地域の住民全員の「幸せ」につながる企業活動に邁進すると、強い決意を伺いました。
井出君の現在の主な肩書は、富士市建設業組合長、富士建設業協会副会長、静岡県産業廃棄物協会の冨士支部支部長、富士防犯協会副会長、静岡県防犯協会理事です。
井出組は、1880年(明治13年)彼の高祖父にあたる井出熊太郎さんが、現在の富士市津田で鳶職人として創業しました。その後、祖父の国作さんが1931年 (昭和6年)に継承しました。戦前の話は、勇次君は、余り聞いておらず、詳しくないそうです。勇次君のお父さんの武義さんは、次男で、戦時中は徴兵され、海軍に従軍し、海南島などに展開していたそうです。戦後、帰国して国鉄職員に復職しました。それから少し遅れて、長男の重信さんが帰国し、国作さんに代わり、井出組を1946年( 昭和21年)継承しました。この時に家業を兄弟で一緒になって盛り上げるよう、武義さんは国鉄を辞めて、入社し、昭和25年に株式会社井出組を立ち上げました。武義さんは結婚後、分家し、勇次君が昭和29年に生まれています。
井出組は、当初から民間の建物建築と公共事業を扱い、吉原小学校が現在地に移転した時の最初の木造校舎を建てたそうです。昭和33年の狩野川台風の復旧事業で沼津に進出し、1960年(昭和35年)に沼津支店を作ったそうです。東京進出は、1962年(昭和37年)です。建設業の許可には、県知事登録と大臣登録があり、昔は大臣登録が必要だったそうで、冠を取りたかったと言います。そのためには、静岡県外に出て仕事をしないと大臣登録が取れなかったそうです。東京では、関東電気工事会社の下請けの仕事、地中線の仕事などを請け負い、大臣登録が取れたそうです。1976年(昭和51年)に武義さんが社長になり、公共事業を主体に土木建築をしていたそうです。当時の富士市長は社会党の革新市長渡辺彦太郎さんでしたが、この方は井出君の親戚だったので、一般の人の予想とは逆に、かえって仕事は取れなかったそうです。自民党の市長時代の方が、仕事はスムースに取れたそうです。武義さんの後を、1990年に本家筋の信明さんが社長になり、1993年には、御殿場支店を開設し、下水管の地中化、土の中に水道管を通す仕事を受けたそうです。当時、御殿場で事業を展開するためには営業所がないと仕事が取れなかったそうです。
2代続けて社長が早く病没し、2004年に勇次君が、5代目の社長になりました。彼は、会社の財務体質を強くするため、これまでの業務内容を精査し、過剰と思われる人員を合理的に整理し、バブル崩壊やリーマンショック、さらには、民主党政権時代の『コンクリートから人へ』政策のマイナス要因の対策として、経費がかかる東京支店を閉め、続いて横浜支店も閉め、静岡県東部地域の仕事に絞り、主戦場を、富士、富士宮、沼津、三島、御殿場したそうです。今も、公共事業の国家予算は年々減り続けており、土木の一件の請負金額が、国交省の一番大きなもので2億円程度、民間の建築工事は大きいものは、最近の特養ホームが8億円と大きく、工事高を考えると、公共事業も請け負うが、民間建築の方が主体になっているそうです。
井出君は、現在を会社の事業の転換期と捉え、財務的には良い状態だが、会社をもう少し強靭なものにして、次世代に会社経営を譲る考えで動いているそうです。ハード面では、本業の建設事業だけではなく、不動産の賃貸収入をもう少し上げようと、不動産を購入して、賃貸で回せるように色々研究し、行っていると言います。ソフト面では、毎月1回、コンサルタントを呼んで、午前中は井出君と話し合い、午後は、社長、専務は席を外し、50歳代の取締役4人とコンサルタントで、次の井出組の経営に関するいろいろな問題点を出して、どう処理するか、会議を開いているそうです。引退後は、次世代に一切を任せ、口も出さないと決めているそうです。
井出君は、子供の頃は、ガキ大将で、近所のリーダーで、野球チームのキャプテンでした。井出君の自宅では、お父さんが心臓疾患を持っていたので、万一、お母さんだけになっては、勇次君と妹さんもまだ小さかったので困ると思い、ガソリンスタンドを昭和42年頃に開業しました。
中学、高校はバレーボール部に熱中し、特に将来の道は決めていなかったそうです。富士高校に進んでもバレー部に所属しました。
高校で、オートバイ免許を取りたかったが、両親からはバイクは転倒事故の危険があるから駄目だと言われ、車の免許は生来必要になるので、それは取ってよいと言われたそうです。16歳で軽自動車の免許が取れた時代があったそうですが、彼が16歳になる前年にその制度は廃止され、軽自動車限定の免許は無くなり、18歳からの普通免許になったそうです。井出君は4月生まれなので、高校3年の初めには免許が取れる計算なので、高校2年の春休みに自動車教習所に行き、4月15日の誕生日に1日休んで、静岡の安倍川の教習所に行き、免許を取ってきたそうです。それで真面目に、ガソリンスタンドの仕事を手伝い、井出組にもガソリンを配達していたそうです。昔の井出組は土曜日、日曜日も仕事をしましたが、雨の日は仕事をしなかったそうです。すると営業用のトラックが雨の日は空くので、そのトラックに乗って富士校まで通学したと言います。お父さんが吉原や富士の街に飲みに行くときは、車で送ったそうです。
当時の富士校は国立理系、国立文系、私立理系、私立文系に分かれ、Hクラスまでの8クラスがあったそうです。井出君は、特に両親からは、どこの大学を目指せとは言われず、特に学科も好きなものはなかったので、彼の希望は関係なく、先生に『お前の力では、私立文系だ。英語と、国語と社会をやればよい。』と言われたと、冗談めかして、言いました。私立文系には、2クラスあったそうで、富士校25回生を下から支える仲良しクラスだったそうです。
井出組に入社する気持ちは全くなく、建築にも興味はなかったので、大学入試直前になっても、まだ何になりたいか、決められなかったと言います。それでも東京には行きたくて、それも東京六大学に入りたいと思い、明治大学商学部に合格して入学しました。
大学に入って、自動車部が面白そうと入部したものの、部は体育会系で学ランを着て、上下関係の規律がきつかったそうです。1年続けたが、お父さんに車が欲しいと言ったら『バカヤロー。』と言われ、それでおしまいで、部を辞めたそうです。当時は、大学紛争の最中で、入学時に先輩から履修科目は取れる限り、すべて取れと言われたそうです。『授業に出なくてもよいから、レポートを出せば通る。心理学も取れ。』と言われ、本当かと思ったものの、大学4年間のうちにロックアウトが3回あり、試験が全てレポートになり、成績優秀で卒業できたようです。デモに行く学生がいることを知ったお父さんからは、『デモに行くために会社からヘルメットと鉄パイプを持っていくんじゃないぞ。』と、注意され、ノンポリの平和な大学生活を送ったそうです。マージャンをしたり、酒を飲んだり、明治大商学部の仲間はもちろん、他大学に進んだ富士校出身の仲間との交流は続き、彼らと新宿や、中野や、渋谷に集まり、課外授業的に遊んだそうです。
4年生の夏に、大学の所属ゼミの先生から、卒業後は埼玉銀行への就職を進められたそうです。ゼミからは毎年就職して、先輩たちがいるし、いずれ静岡に戻るとしても3年、できれば5年勤務したらどうかと言われたそうです。しかし、たまたま井出組の先代社長が亡くなり、お父さんが社長になった時期でした。お父さんに埼玉銀行への就職を相談したところ、『俺は、今、社長になったばかりだ。将来、お前がいると助かるから、井出組に入れ。人様の稼いだ金を寝っこし、数える仕事なんかしてどうするんだ。そんな商売は駄目だ。浜松に土木建築の中村組がある。そこに話をする。どうせ大学で建築のことなど学んでいないから、そこに行って3年間、丁稚奉公をして来い。』と言われたそうです。強い親には反論できず、ゼミの先生には断りを入れ、さらにお父さんからは、『修行に行くのだから4月からではなく3月1日から言って来い。』と言われ、その通り、卒業式の1日だけ休んで、3月1日に井出組に入社し、そのまま、中村組に勤めたそうです。
中村組の社長からは、『井出君は商学部を出てきたが、人の会社の経理をしてもらってもしょうがない。営業をやってもらってもよいが、富士に帰ったときに、浜松地区の営業は何の役にも立たない。建築会社は基本的に現場力だ。物事は、現場で覚えるものだ。現場に出なさい。』と言われ、建築の現場、土木の現場に3年間出させてもらい、それが今は良い経験になっていると言います。どうせ土木に出ているから何か取ろうと、二級は難しくはないので、自分で勉強して試験を受け、土木の二級施工管理士を取ったそうです。現場で技術者の手伝いとして、測量をしたり、書類を作ったりしたそうで、夜のお酒の付き合いもあり、浜松の3年間は楽しかったと言います。
その後、井出組本社に戻り、1年間、内勤をして、見積もりを作ったりして、富士、富士宮の現場に3年間出たそうです。お父さんが、岳南産廃処理業協同組合の組合長もしていたので、井出君は主に産業廃棄物の処分場の現場に出て、現場の管理、測量のサポートをしていたそうです。
井出君は、28歳の時に、11月末に結婚して、翌年5月の連休で台湾に行き、魚やフルーツやら生ものをたくさん食べ、いわゆる食中毒、経口感染の非A非B肝炎になってしまいました。朝起きたら目も、体も、あちこちがかゆくて、調子が悪い、会社に出社したものの、辛いので病院に行くと言って、当時は建物が古かった富士中央病院は避けて、蒲原病院を受診したそうです。診察室に入ったら、先生が井出君の顔を見た途端、そのまま後ろを向いてしまい、看護師に、『病室が開いているか、入院できるか、確認して。』と言ったそうです。井出君は、まだ何も話をしていなかったので、前の患者の事かと思ったそうです。しかし、『黄疸が出ているので、入院だ。』と言われ、どこが悪いのかと聞いたら、『それを調べるために入院する必要がある。』、今からすぐかと聞いたら『そうだ。』と言われたそうです。井出君は、入院するつもりではなかったので、一度会社に戻らなければまずいと言ったところ、『一回帰っていいが、すぐに戻り入院しろ。昼食も病院食を食べろ。家では駄目だ。入院は2週間以上。』と言われたので、帰宅して、行きつけの床屋さんに行き、荷物をまとめて入院したものの、当時の肝炎治療は、ただ安静にして肝臓庇護食を食べるだけの時代でした。数値が下がらないと、また入院期間が延び、お父さんが病院を変えるかと言ったものの、結局、4か月半入院していたそうです。
新婚の奥さんはペーパードライバーでしたが、自宅から病院に見舞いに来て、買い物や、洗濯ものを運び、それから加島町の実家に戻って愚痴をこぼしては、津田の自宅に帰る毎日だったそうです。実家の曾祖母が、『あれじゃ道子がかわいそうだ。嫁がせなければよかった。』、と言っていたそうです。お義母さんの妹さんが、井出君の近所に嫁いでおり、お見合いの前に、『勇次君は酒を飲むのか』と聞いたが、たまたま、妹さんの旦那さんがもっと酒好きだったので、その人に比較すれば、『あの家は酒を飲む家系だが、勇次君はそれほど飲まない。』と言われたようです。『それでよいかなと思って結婚したら、実は沢山飲むし、その上、病気になった。結婚をもう少し、じっくり考えればよかった。』と後から奥さんから言われ、頭が今でも上がらないそうです。入院して良かった点は、当時、1日当たり、1万円もらえる入院保険に入っていたので約120日入院していたので、120万ぐらいが手に入り、それで奥さん用の車が買えたことだそうです。
ようやく退院した後も、医師からは『酒を飲んだら駄目だ、慢性肝炎になるかもしれない』と言われ、まじめに節制して三か月ごとに採血して、『γGTPが200が超えたら入院だが、今は超えていないので、禁酒もしているし、今の状態で良い。』と言われ、さらに半年経過観察した後、先生が、『ここまでくれば、仕事の関係でお付き合いで多少は飲むだろうから、少しなら良い。』と言ったそうです。
しかし、その医師の言う≪多少≫と、自分の【多少】の基準が違ったらしく、3~4年間は禁酒していたが、飲んでよいと言われてからは、30代は病院に通院しながら沢山飲んでしまったそうです。
富士市には、明治大学校友会冨士支部があり、若い時からその支部会に出て行ったら、大先輩ばっかりだったが、皆に可愛がられて、飲み会に随分誘われていたそうです。そのメンバーの、富士アセチレン会社の望月さんから、JC青年会議所に入れと言われ、酒が飲めないので断っていたそうです。しかし、肝炎が良い状態で、飲酒を許可されたので、入会したそうです。医師の指示を都合よく解釈し、飲むときには、4合瓶を一晩で飲んだこともあり、飲酒量を減らすよう言われたものの、関係各社との付き合いも多く、結構、飲んでいたそうです。
34歳頃の富士祭りの翌朝、腹痛があり、これは普通じゃないと思い、奥さんの運転で川村病院に行き、これまでの病歴を話したら、肝炎か、膵炎だろうと言われ、即入院になったそうです。注射を受けてそれまでの激痛がスーと取れたので、何だったのかと思ったらそれはモルヒネの注射だったそうです。結局、急性膵炎の診断で、その後、蒲原病院に2か月半入院しました。看護師には、繰り返しの入院のため、心得を良く知っていると褒められたそうです。以後は禁酒したそうです。
食事も厳しく制限され、動物性蛋白質の摂取は駄目で、植物性蛋白質の豆腐、納豆、それに生野菜だけと言われたそうです。好きなラーメンはスープが駄目で、もちろん、かつ丼などもっての外で、それでは食べるものがないと言うと、そういう生活をしなければまた再発すると言われたそうです。
自分の仕事は、営業して建築土木の仕事を獲得する事であり、野菜だけの食事では自分の声に力が無いのが判るし、お客さんへの印象も違う、禁酒は我慢できるが、食事制限はもう少し緩くならないのかと質問したそうです。その懇願に負けて、医師も『ここまで経過したならば気を付けながら食べればよいとしよう。ただし、むやみにたくさん食べないこと。』と言ってくれたそうです。
その頃から、会社が土曜の午後が休みになったので、帰宅して女子プロゴルフのテレビを見て、くつろいでいたそうです。殻のついた落花生を一袋食べて、さあ、夕食を取ろうとしたら急に強い腹痛が出てきて、これはまずいと思い、川村病院に慌てて受診したそうです。医師に一体、何を食べたのかと聞かれ、落花生を一袋食べたと言うと、『ピーナッツは脂分が多く、君のような患者には一番毒だ。』と言われ、そのまま3日間入院して点滴を受けたそうです。
また、ある時は、ゴルフ場で昼食にとんかつ定食を食べたそうです。そのあと、ゴルフの競争に負けてみんなに焼き肉をおごることになり、どうせならば、人よりも良い肉をたくさん食べてやろうと思ったそうです。帰宅したら、急に腹痛が出てきて、川村病院に行き、何を食べたと聞かれ、昼食でとんかつ定食を食べ、夕食で焼き肉をたくさん食べたら、後で腹痛が出てきたと答えたら、『馬鹿じゃないの。肉が一番悪い。』と言われたそうです。
30歳代は医者の注意を聞きながらも、仕事の付き合いもあり、節酒はできたものの、食事の誘惑には勝てず、時々過食をしていたそうです。今後の、皆さんの教訓になればと、上記のように、恥ずかしい、お話をユーモラスに聞かせてくれました。
会長になったお父さんは、井出君に期待をかけ、『自分は取締役でなくて良いから、勇次を取締役にしてやってくれ。』と言ってくれ、37歳で取締役になりました。
青年会議所は40歳で卒業し、その後、会社では、営業部長、沼津支店長になったり、関連業界の役員も兼ねたそうです。お父さんの後任の社長が、体調が芳しくなく、技術職の専務が社長をサポートし、営業、対外的な業務は常務の井出君がしていたそうです。社長の代わりであちこちに出かけていて、忙しかったが充実し、運よく大病はしなかった40代だったと言います。吉原地区で、建設会社が、保坂組、中村組、井出組が並んでいたのが、井出組が頭一つ出てきた時代だったと言います。
井出君は、2004年、50歳の時に社長に就任しました。先代の社長が、病気を抱えていたため、そのサポートをして会社経営の中枢の一角にいたものの、急に社長になる事態だったと言います。自分一人で、この受注が少なくなってきた時代に、会社を運営するか考えなければならなくなり、喫緊の難問は、従業員120人をどう生活させていくか、悩んだと言います。出発点は、無駄なお金を出さず、収入を上げて、会社の財務体質を強くすること、先代達がしていたことを精査し、否定し、逆のことをやることだったと言います。
60歳定年制だったが、定年を過ぎた再雇用の人が20人含まれていたので、無駄なお金を出さない方針の一つとして、まずは断腸の思いで、人件費を削ったそうです。技術屋も、資材管理の専門家も必要なことは、重々承知していました。しかし、定年後の20人に『1年間は契約するが、翌年は契約できません。』と明言し、自ら一人一人と交渉し、残りの期間が2~3か月の人には、『明日から休んで良いから、再就職活動をしてくれ。』と言ったそうです。土木建築の上層部から、『あの人間は専門資格を持っているので、是非、残してくれ。』と言われたが、一人、二人を特例で残すことを認めてしまうと、辞めた人に、『なんであの人間は残れるんだ。』と思われるので、対象の20人全員、平等に辞めてもらったそうです。会社の生き残り改革のため、大鉈を振るい、『親父の武義さんは良い人だったが、息子の勇次は生意気で、どうしようもない。』と、非難を浴びたそうです。不幸にも先代達がみんな亡くなってしまい、相談する人がいなかったことが、自分の経営改革の実行にプラスだった、と言います。先代が会長職などで残っていたら、実行出来なかったかもしれない。その実体験から、自分の引退後は、次世代に一切を任せ、口も出さないと決めているそうです。
代わりに若い技術者が欲しかったが、若い人が地方にUターン就職しない時代なので、すんなりとは新規採用はできないと言います。現在の安倍首相のアベノミクスも、東京などの大都市に仕事が集中する大手企業のための政策であり、地方の中小クラスの事業者はかえって大変で、日本の全国津々浦々に波及するような政策ではないそうです。職人、技術屋さんが条件の良い東京に行ってしまい、人件費は高くなるうえ、地方では職人が不足しています。しかし、10年近く新人が入っていなかったが、最近は1年に新卒が1~2人、それに中途採用も入るようになり、従業員の構成が逆三角型だったものを、何とか、ピラミッド型に近くなるよう、若返らせたいと言います。
井出君は商学部出身であり、技術屋さんではないので、技術面はチーフの技術者に責任と権限を与えて、最終的に会社の粗利目標を、数字的に管理できれば、それさえできれば良いといったそうです。いわゆる、どんぶり勘定の管理を月次で管理できるようにしました。下請けの施行業者、材料屋さんの選定は、あなた方がその専門家だから、任せるから責任を持もって、最終的に会社の粗利目標は確保してくれと言ったそうです。井出君が、会社の財務をチェックし、それで年々利益も出て来て、財務体質もよくなってきたそうです。
更に、自分だけの考えに固執せず、コンサルタントを招き、財務体質強化の勉強会を開きました。従業員100人を、5つのグループに分け、2泊3日でコンサルトを受ける研修会を開いたそうです。井出君も同席し、2日目の夜には一緒に食事をし、みんなの意見を聞いたそうです。すると、どこのグループの社員からも『これまでの経営はおかしい。売り上げ目標を言われて、それが達成できていても賞与に反映していない。結局は、それほど払えないとか、昇給できないとか言った。おかしい。』と言われたと言います。
確かに売り上げ目標は達成できても、粗利目標が達成できていないこともあり、その事情は経営陣の一人だった井出君も分かっていました。『会社の立場から言えば、財務体質もきつかったので、その時はできなかった。しかし財務体質が良くなって来れば、みんなの要望通りに出来てくる。それを責任もって俺はやる。』と約束したそうです。
彼は、従業員に簡潔に、『これからはこの1年で粗利目標を1億円稼ぎましょうと目標を掲げ、それを超えて1億5千万になったら、その目標以外の5千万については、税金、必要経費を差し引いた残り全部を、職員のみんなに支給ではなく、配分する』と約束したそうです。そして実際、1年目は無理だったが、2年目からは目標利益を超えるようになり、夏・冬の賞与以外にも決算賞与を出せるようになったと言います。8月が決算日なので、8月末に出し、社長就任後13年目になるが、今もずっと出していると言います。
この様な改革で、仕事への社員のモチベーションも高くなったが、それがまた、段々、利益の幅が少なくなってきたので、もう一度次世代の幹部とともにコンサルトを受け、もっと強い会社にしなければと思っているそうです。従業員本人達に本音を聞いてみなければわからないが、『みんなで稼いだ金なので、みんなで配分しましょう。』と言う自分の考えに共鳴してくれたみたいで、富士市で一番働きやすい会社として対応できていると思うと言います。
井出君が社長になってからの仕事で、自信があるのは、富士市役所の耐震工事を20億で行ったことだそうです。このような大きな事業は、本来、会社の規模からいえば富士市で一番大きな会社の石井組がトップにくるそうです。この仕事は、竹中工務店が受けたが、役所側に地元の業者でやらせてくれと営業し、市長の決裁で地元の業者に決まったそうです。普通、地元業者というと、石井組、井出組の順番になるのが、今回は、井出組、石井組の順番になった。これは、井出組も吉原のトップと評価されるようになったことで、うれしかったと言います。
最近、『エコアクション21』で評価されている優秀な企業を見学しようと思い、埼玉県の環境問題で素晴らしい仕事をしている、石坂産業という中間処理の産廃業者を訪ねたそうです。実際、視察をして、この会社は並みの会社ではない、とにかくすごい、従業員は大きな声で挨拶しバリバリと働いている、会社内はしっかりと整理整頓され、清掃が徹底されている、稼動している重機も全て電気で動いている様を見て、驚いたと言います。二代目社長は女性だが、全然、考え方が自分とは違い、共鳴を受けた、人材教育もISOに従っており、将来、長く地域で企業活動をしていくには、地域住民と共生して、行かなければいけないと思ったそうです。
現在、井出君は、挨拶運動の徹底として、朝の7時半から7時50分まで一人で玄関に立って、出勤してくる従業員に挨拶しているそうです。そして7時50分から8時まで、みんなで会社の中を掃除し、整理整頓を徹底しているそうです。意識改革をして、一体感を持って、全員で会社を良くしようと取り組んでいるそうです。最初に足を踏み入れた玄関はもちろん、トイレも清潔になっている会社と、周辺にタバコが落ちていて、水場には流していない長靴の跡があるままの会社などを比較すれば、お客さんの対応が異なる、この会社に住宅の建築を任せて大丈夫かとか、そういうことまで意識して会社をきれいにしよう、と言います。今の子供達は、やれと言っても自分からはしない。ちゃんと理解しないと行動しない、何のために掃除しなければならないのかまで、その目的を正確に伝えて、教えなければなかなか全員でやっていくのは難しい。例えば、100人いるとして、20人は、社長のことも 会社の言うことも分かって積極的に行う。残りの20人は、何を言っているんだ、そんなこと言っても給料は上がらないし、無駄じゃないかと、後ろ向きでいる。残りの60人は、どっちつかずだ。これを100人が100人とも同じ方向を向くようにしないと最大のパワーにならない、後ろを向いている仲間達を何とか前に向かせ、動いている人間はもっと前に向かせるようにするのが、社長の仕事だと思っていると言います。
井出君の息子さんは、安藤建設に5年間修行に出かけ、井出組に入社し、今は建築の現場に出ているそうです。親子でも、周りから彼ならば信頼できると言ってくれれば良いが、基本的には同族経営にこだわらず、優秀な人間が会社を動かしていければよい。そうしなければ会社は衰退していくと言います。
- ロータリーに入会したきっかけは何ですか。
井出君は、ロータリーは2005年に入会しています。お父さんも、メンバーだったが、ロータリーのことは聞いていなかったそうです。先代社長の藤田久好さんも入っていたが亡くなり、その時に、長谷川篤君から誘われた、と言います。彼から事務所に呼ばれ、仕事の話だと思って出かけたら、ロータリーに入れと言われたが、社長になったばかりでまだ入れない、と言ったそうです。しかし、『藤島組のメンバーが辞めたので、職業分類で建設の枠が一つ空いている、今でないと、後からでは、入れてくれと言っても入れない。お父さんも藤田さんも真面目だから、あんたも大丈夫だ。』と言われた。二人は真面目だが自分は真面目ではない、それでも大丈夫かと言ったが、『大丈夫だ。いいから入れ。』と言われたそうです。
ライオンズクラブからも誘われ、周囲の会社の知人も、JCの先輩もライオンズに入っていたので、どうしようかと思ったが、ライオンズは飲み会も兼ねた会合が多いと聞き、健康に不安があったので断ったそうです。ロータリーも、以前、JCも入っていたので、当面は勘弁してくれと言ったが、長谷川君に『JCが終わって、もう10年も経っているのだから入れ。』と言われたそうです。今は入会者が少なくなり、入会基準が緩くなったが、昔は職業分類が厳しく、巡りあわせが悪ければ入会できなかった。長谷川君には仕事の世話にもなっていたので、断るわけにいかなかった。それに、当時は会員数が減ってきた時なので、これまでになく、積極的に会員募集をかけた時だったそうです。
井出君というと親睦のイメージが強いが、とインタビューすると、親睦の委員長は1回だけだが、親睦のメンバーには、複数回なったと言います。他には、会員増強委員長にもなり、昨年はプログラム委員長でした。
これまでのロータリー活動は、自分の会社が忙しい時は、幹事など時間が多く取られそうな役職は無理だと思った、と言います。会社だけでなく、業界、組合の仕事もあり、毎週出る幹事は無理、引き受けても迷惑をかけるからと断った。ただ、いくつかの委員長は、その役割を任せてくれるならばしっかりとこなす自信はあったと言います。一旦、すべて任せてもらえば、できる限り、一生懸命働く性格だが、どうしても各方面から色々な注文が出て来て、考えていたことが頓挫してしまうと、いやになってしまう性格だとも言います。
ロータリー六十周年記念事業の時に、副実行委員長をしてくれと言われ,副委員長なら良いかと引き受け、増田正之君が委員長、杉山隆正君と自分が副委員長になった。初めは先輩方の意見を伺うと、以前の事業はこうだった、ああだったと、多くの意見が出て、なかなか一方向にまとまらなかったそうです。このままの進行方法では、期日までに良いものは決まらないと思い、きちんとしなければ気が済まない性格なので、杉山君とバタバタと進めていったそうです。決まった事項については、諸先輩に逐一報告したが、聞いていない、いや話した、の誤解も生じることもあったので、料亭での懇親会を兼ねた会議を改め、ホワイトパレスで弁当を用意しての、会議に変更した。しかし、直前会長の小糸吉則君が亡くなる不幸も重なり、上手く、先輩方と、良い関係で最後まで記念事業を遂行できたかは、自信がないと言います。
ただ、その経験から言えるのは、JCでは、40歳で退会するので、各事業運営は現役世代が担っている。ロータリーはJCとは同じメンバー構成ではないので、JCと同じ方法にしろというわけでない。しかし、何かの事業を行うには、実行部隊に全ての権限を与え、諸先輩は一つ高い局面から俯瞰的に観察し、ポイント、ポイントでの報告を受けたら了解し、見守ってくれるスタイルが良い。本来、会を運営するには、そういう運営でないとまずい、若手が育たなくなると、言います。
若手達から、将来、会長を引き受けてくれと言われることもあるが、これまで大病を何度も繰り返しており、70歳まで生きれば儲けものと思っている。会社も遅くとも65歳までに引退するつもりだと言います。65歳から70歳までは、自分に正直に行きたい。見栄を張るかのように、世のため、人のためと言って、時間を使いたくない。迷惑をかけてきた家族と、自分の為だけに、わがままにその時期を使いたいと言います。最近は、若手メンバーが増えており、自分なんかよりも、彼らに大いに期待をしていると言います。
Q.今の趣味は?これからの夢は何ですか?
趣味をゴルフとは言いたくはないが、随分と長く、ゴルフはしている。以前は仲間とアジア方面にゴルフ旅行に出かけたが、病気をしてからは、もっぱら九州方面が多い。福岡には、年に2回ぐらい行く。静岡空港から出かけ、福岡空港に着いたら、そのままレンタカーを借りてゴルフ場に仲間4人で出かける。夜は博多の中洲の歓楽街に泊まる。飲酒は控え、美味しいものを食べて、3日ぐらいゴルフをして帰ってくる、と言います。
後はたまに一人で行く小旅行だ。今は、車の運転は控え、遠乗りしない。静岡市も新幹線で行く。温泉巡りは日帰り温泉ぐらいだ。
今の一番の楽しみは、ちょうど一歳になる孫と会うのが楽しみだ。これまでは抱こうとするとすぐに泣かれたが、ようやく慣れてきてくれた。裸足で歩いているのを見ると、寒いだろうし、かわいそうだから、妻と娘に靴下をはかせてやれと言うと、裸足の方が風邪をひかなくて良いと言う。出社前に、孫が泣いている姿を見て、抱き上げたら泣かなかったので、喜んだら、妻から、『そんなに喜ばなくても、いずれ、お小遣い頂戴。』と来るから、心配するなと言われた。自分の子育ての時期は、大病をしたり、会社やJCの仕事で忙しく、余りかまってやれなかった。父が子供を風呂に入れてくれたので、自分はしなかった。しかし、その時に比較すると、孫は時間に余裕もあり、手がかけられるので、かわいい、と言います。
写真は、社長室での井出君、先代の写真との井出君、井出組のロゴマーク『じつは井出組』、本社ビルです。
インタビューアーの(高井計弘)の言い訳
井出勇次君は、私の実家の隣家で、本当に小さい頃からの幼馴染です。妹さんは私と同級生です。子供の頃から、リーダーシップを発揮し、近所の子供達をまとめ、野球チームを作っていました。成人になってからは、職種も違い、離れていましたが、ロータリーで再び、お付き合いさせて頂いています。
井出君の話を聞くと、日産のゴーン社長と重なります。会社の立て直しのため、大きな日産村山工場を売却し、経営に大鉈を振り、現在の日産を作り上げた、この実績もまた何十年後かに否定されるかもしれないが、それを恐れない行動とダブります。それに、変化していく時代の中で、徳川家を再興しようとした徳川吉宗の改革を、思い起こさせる印象でした。
時代の変化に、個人が抗うことは無駄かもしれませんが、たまたま神様、仏様から与えられた短い人生、有意義に生きたものだと改めて思いました。
株式会社 井出組
富士市島田町2−115
TEL 0545−52−5100
一般土木建築