今回の企業報告は、職業分類がレジャー業・アミューズメント映像音響設備の株式会社市川商事代表取締役会長、市川信司君です。ロータリー歴27年です。
富士市厚原で『カラオケ本舗まねきねこ』をテナントにし、3階に35坪の事務所を構える市川本社ビルでインタビューさせていただきました。レジャー産業は、第一に人との付き合い、信用が大事であり、社会の経済状況がすぐに経営に影響し、浮き沈みの激しい難しい業界と想像します。この業界に門外漢のインタビュアーの不躾な、答えにくい質問にも、ニコニコと気さくに答えていただきました。オフレコのお話は、頭の中にしまっておきます。市川君の面白い話を聞きたい方は、例会に出席して、こっそり聞きましょう。
市川君の御祖父さんは富士宮市青木で農業を営んでいました。御祖母さんの実家も富士宮市で、煙草屋、菓子屋を経営していたそうです。御父さんは、9人兄弟の6男で、戦争で召集され、昭和16年から20年にかけて朝鮮から中国まで進攻していったそうです。伍長として中国の最前線の戦いに展開していた時に、終戦を迎えました。運よく、当地で抑留されるようなことはなく、何とか早い段階で日本に帰国することが出来て、昭和21年初めには富士宮に戻ったそうです。その後、鷹岡にあった佐野鉄工所に勤務するようになり、身延線で電車通勤していたそうです。そんなおり、富士宮市貴船町で呉服問屋していた御母さんの実家に、御父さんが着物を買いに行き、御母さんを見染めて、昭和22年に結婚されたそうです。富士宮市神田の浅間神社の近くに居を構え、昭和23年に市川君が生まれ、彼は一人っ子だそうです。
佐野鉄工所は遠方だったので、勤務先に近い土地を探していた所、身延線入山瀬駅の傍で、近々、鷹岡中学ができるという話を聞き、御父さんが80坪の土地を購入されました。戦後でまだ大変な時でしたが、御父さんは地主さんに気に入られ、月賦での購入にしてもらえたそうです。
御父さんは、長年、佐野鉄工所に勤務し、御母さんはお店の仕事で忙しく、市川君は、子供時代は御母さんにはあまり一緒に遊んでもらえなかったそうです。友人が店に買い物に来たり、遊びに来たりするので、みんなを集めては、遊んでいたそうです。人の後についていくのが嫌な性格で、負けず嫌いでした。
戦地の大変な経験をしていた御父さんが、市川君を強い子にしたかったので、警察が柔道を教えていた富士宮の道場に、鷹岡小学校5年ごろから、通わせられたそうです。鷹岡中学校では、それまでなかった体操部と柔道部を立ち上げ、試合にも出たそうです。
御父さんは鉄工所勤務だったので、将来は同様の就職先として市川君に吉原工業高校か、沼津工業高校への進学を進めたそうです。しかし、当時は、大学進学率が低い時代だったので、高校で終わりたくない、大学に進みたかった市川君は、日本大学付属三島高校に進学しました。1年先輩に前富士市長の鈴木尚さんがいたそうです。
日本大学の法学部に進学し、将来は、弁護士か、政治家になりたかったそうです。今はならなくて良かったと思っているそうです。大学の本校は水道橋にありましたが、学生運動が盛んな時代で、デモには3回ぐらい参加したそうです。大学は頻繁にロックアウトされ、授業が受けられず、出席数も危ういため、卒業に必須の単位数を取るために、埼玉校まで行かされたりして、何とか卒業できたそうです。
御父さんからは、家の跡取りとして富士で仕事を探すなり、新たな仕事を始めるなり、好きなことをして良いが、先祖の家を守れ、25歳までに帰ってこい、といわれたそうです。一人っ子の長男なので、富士に帰らなければならないと言う、自覚を持っていましたが、2~3年は東京で生活したかったと言います。
大学卒業後は、叔父が東京で(株)宝栄工設という建築会社を経営していたので、そこに就職し、建築を勉強しようと思い、専修大学建築科へ2学年より定時制へ編入しました、それから3年勤めたそうです。営業職で入社しましたが、最初は現場の仕事ばかりで、会社が、主にガソリン給油スタンドを建設していたので、その基礎工事の土方の見習いをしたそうです。昔は大型機械のユンボなどがなかったので、地下タンク槽を掘るには手掘りだったそうです。2年ほどして、営業に出させてもらえるようになったそうです。
特に建築に必要な資格を取って同じ会社を立ち上げようとはとは思わなかったものの、叔父に冨士に会社の営業所を作り、市川君をそこに出してくれないかと相談しましたが、叔父にその計画はないと言われ、その会社は辞めて実家に戻ったそうです。
東京では建築業で金を貯めながらも、夜はスナック、バーなどを、飲み歩いたそうです。その経験から、富士で同じように飲食店を始めようかという考えもあったそうです。当時は、鷹岡は小さい街でスナックなどはなく、吉原商店街に、『御前様会館』があった程度だったと言います。
昭和48年に25歳で富士に戻り、半年間は、地域の情勢把握も兼ね、開店の準備をしていました。
鷹岡は小さい街なので店を出すのは無理と思い、ホワイトパレスの北側、錦町にテナントビルの物件を借りたといいます。近所に日産自動車の営業所、修理工場、JA等があり、社員達が来てくれると思い、15坪のテナントを借りて内装工事をして、昼は喫茶店、夜はスナックの店を開きました。それが初めての仕事で、朝8時からお店を開いて、夜中の午前2時まで働いたそうです。初めは従業員を雇っていましたが、十分な利益が出ないので、自分で焼きそば、煮込み料理など簡単な料理を作って出すようになったそうです。高校時代から富士宮市の喫茶店で、バーテンのアルバイトをし、大学時代も飲み屋さんでアルバイトの経験があったと言います。
最初の店のオープンから、3年目で、青葉通りの地方法務局近くにタレントという名前の第2店を始めました。最初のお店の名前は、Zでした。アルファベットの最後のZに由来し、それから遡ってAまで行こうと目標を立てたからと言います。2軒目は、女性をタレントにすると言う意味で名付けましたが、任せた女性が売上金を持って半年後に逃げてしまい、1年でその店は閉めたそうです。
経営していたお店では、ジュークボックス、カラオケがブームになり始め、インベーダーゲームや、ブロックなどのゲーム機も流行り始めていた時期だったそうです。その将来性に目をつけて、カラオケの音響機器や、ゲーム機械を、スナックや喫茶店を開いている人にレンタルしたほうが事業になると考えたそうです。学生時代は、クラブ、キャバレーのバンドの歌手や自分の店ではギターの弾き語り等をして、お客に歌わせたりしていたので、カラオケは自分で弾いたりしなくてすむので、取り入れました。レンタル業は、毎月コンスタントに収入になるので、昭和53年から始めたそうです。
スナックを開いた時に付き合いが出来た業者が、ゲームのタイトーを紹介してくれ、次々と、インベーダーゲームはタイトー、カラオケは今のエクシング、第一興商と取引関係を持つようになりました。バブル期の時流に乗り、カラオケ事業は成功し、順調に伸び、インベーダーゲームも急速に伸びました。ただし、ゲームは、次々に新規の機種が出て来て、お客さんの好みもどんどん移るため、同じゲーム機は長くは持たず、半年~1年で古い機種として、すたれてしまいます。2~3か月で償却しなければならない機械を、需要予測を見誤り、大量に扱かえば、没になり、大損する、そのまま産業廃棄物行きになることもあったようです。
その点ではカラオケ事業は、現在に至るまで長いブームが続いています。最初は、ジュークボックスにカラオケを入れ、その次はテープだったそうで、市内近在の8割ほどのスナック、クラブに納入したそうです。時代もバブルで飲食店に勢いのあった頃だったので、新規開店のお店があれば、既存の店が紹介もしてくれたそうです。
30歳代~40歳代までは、まさに事業は順風満帆だったようです。自宅敷地も80坪から500坪にも増やしました。40歳代では、静岡県で初めてのカラオケBOXをオープンさせました。世の中はカラオケボックスがブームで、富士でも次々に新規開店し、レンタル機器の注文も多く、事業は右肩上がりだったそうです。当時は静岡市から御殿場市のスナックやカラオケBOX店に、機器を納入していたそうです。
平成13年頃、自社のホームページを立ち上げる時、専門家をスカウトし、本社3階事務所隣に15坪のスペースにホームページ作成・ECサイト作成・運用WEBアプリケーション作成・各種サーバー構築・社内ネットワーク・VPN構築等を扱う『アドネット』という名の子会社も設立しました。
以前、45歳位に、冨士駅近くにあったパピィのショッピングセンター内の5階に100坪のカラオケ店を直営していたそうです。順調に業績が伸びたため、億単位の投資をして、5階は事務所に、4階はパピーに頼まれワンフロアを改装して400坪ほどのゲームセンター、カラオケを開いたそうです。
しかし日本全体が長い不景気の中に沈み込み、パピィもつぶれたので、そのお店も辞めることになりました。富士宮市にも、200坪のカラオケとゲームセンターを持っていましたが、利益が上がらず、2年前に辞めたそうです。プレイハウスという店も、本社ビルと市役所の南、それに吉原商店街の3か所にあり、20年前には携帯電話の店『ベルプラザ』を富士、富士宮に7店舗オープンしましたが、それらのお店も整理し、本社ビル店は、『カラオケ本舗まねきねこ』に貸しています。港大通りのスシローの向かい側にもゲームセンターを営業していましたが、それも数年前に閉店しています。平成元年に本社ビルを建てるまでは順調だったのですが、平成16年頃から業績は低迷し、採算ベースが合わず、大型の直営店は無くなったと言います。
社長職を息子さんに譲ったのは2年前で、事業を整理するお店は整理して、しっかりと落ち着いたところで息子さんに譲ったと言います。これまでの事情が分かっている市川君自身が、決着をつけないまま、息子さんに事業を移すと会社が潰れると思ったからと笑いながら言います。
飲食業、それに関連する市川君のようなサービス業は、日本の経済事情をもろにかぶってしまいます。バブル時代に、吉原地区でもキャバレー、スナックが増えましたが、バブルがはじけた後は、それが今度は一気にサーと減り、飲食店の数は全盛期の1/3になり、市川君の会社も減収になったと言います。
もう一つの会社の事業は、イベント業者への音響機器の貸し出しです。かつて事業が絶好調の時は、従業員は多い時は40~50人いましたが、現在は8人だそうです。息子さんに社長をさせて、もっと頑張れと言っている、景気の悪い時に数字を伸ばすのは難しい、しかしそれが仕事だ、と教育していると言います。
もう一つ、市川君の会社の特色に、障害者施設や、老人ホームなどへのカラオケ、ゲーム機器の寄付があります。市川君は謙遜しながら、昔から奉仕の精神かなと思って寄付を続けてきたと言います。いろんな事情で施設に入所している人たちが、知力、体力に障害、衰えがある時に、いつ自分もそうなるかもしれないと思い、会社の中古のカラオケ、ゲーム機器が、病気の発症の予防に役立てればと思ったと言います。事業が忙しく、機械が出回って稼いでいた時は、事業が優先なので、そういう気持ちはあったができなかった。バブルがはじけた時から、寄付を始めたと言います。
50歳代までは、2か所のゴルフ会員権も所持し、ロータリーのゴルフ部にも入っていて、コースを回っていたそうです。しかし、若い時からのヘビースモーカーで毎日60本吸っていたそうです。58歳の頃に呼吸が苦しくなり、医者から、肺気腫で肺全体の1/3が死んでいる状態と言われ、禁煙しろと言われたそうです。その時は、何を言っている、やめられるか、とそのまま吸い続けていたそうです。しかし、更に症状が悪化し、歩くだけでも息が上がってハーハーして苦しくなり、ゴルフもできなくなったそうです。
市川君よりもっと重症の肺気腫患者で酸素ボンベを体から離されなくなった人達を見て、ようやく禁煙を決心したそうです。医者からも、そういう風になりたいなら、吸っていろと言われ、禁煙は辛かったが、まだ事業を続けたいし、命が欲しいと思ったのでやめたそうです。おかげで病気の進行が止まり、今は、健康はほどほど復活し、たまにはゴルフの練習に息子さんと出かけられるそうです。
車が好きで、現在、ランクルーザー、ジープ、レクサスのRX,とIS.それにベンツを所有されています。バイクも持っていましたが、奥様から、「車は良いがバイクは死んでしまうので駄目、まだ生きていてほしい」と言われて売ってしまったそうです。昔は一人で名古屋も車で行ったそうで、今でも一人で東京まで車を運転するそうです。全国カラオケ協会の中部支部会長、ゲームの協会の副会長、それに全国使用者連盟の中部支部会長もしているので、1か月に2回ほどは仕事の会議、情報交換会などで、品川プリンスホテルに車で出かけ、首都高速から環状6号線、都内と走っているそうです。
奥様は会社の事務部長を務め、自宅ではたばこ販売の専売特許権を持っているので、タバコ店も引き続いていて営業されているそうです。かつての店舗の一部は、郵便局の支局に貸しているそうです。時代の流れは、個人の力だけでは何ともしがたい点があります。
Q.ロータリーに入ったきっかけは何ですか。ロータリーでの思い出、または後輩の皆さんに伝える思いは何ですか?
ロータリーは平成3年、42歳の時に、長谷川篤君から教えてもらいました。長谷川君はすごい人だ。当クラブの7~8割のメンバーは、長谷川君がらみの入会ではないだろうか。
商工会議所にも入って、牧田一郎君と青年部の発起人をやっていたが、牧田君は自分よりも少し年上で、ロータリーにも何年か早く入っている先輩だ。
例会を途中で抜けるには、会社の事情がある。実は会社のミーティングは、ロータリー入会前までは、午後1時から行っていたが、入会後は午後1時半に遅らせている。サービス業の特殊性として、顧客の飲食店は、まず午前中はお店を開いていないから、自社も午前中は仕事にならない。留守番の事務員一人は、土曜、日曜はいないが、平日の午前10時に出勤させている。しかし、実際の仕事、営業は、お店が開き始める午後から、午後11~12時まで、行われている。職員は、午前10時から午後6時までと、午後1時半が始業時間に当たり、それからが『朝のミーティング』に相当する。ミーティングの終わった午後2時から職員は営業に行き、飲食店が開いている時間にあちこちを回り、夜10~11時まで働いている。毎日ミーティングを行い、事業報告をするので、ロータリーの例会は最後までは出られない。
例会終了後、自分が戻る頃には会社の会議が1時からなので終わっていて、自分が事業内容を何も知らない状況になってしまった。それで、自社の会議を午後1時から、30分遅らせて午後1時半にした。午後1時に帰れば1時半には間に合う。しかし、卓話にはほとんど出られない。良い卓話が聞けないのは残念だが、内容は後で、会報で読んでいる。紹介者の長谷川君にもそんなことでも良いかと聞いたら、職業奉仕なので仕事優先でOKと言ってもらい、それで入会27年を超えられた。会社のミーテイングさえ終われば、後は時間が取れるので、夜間例会は大丈夫で、ほぼ毎回出席している。
そういう事情から、幹事、会長を引き受けるのは、例会の最後までいなければいけないので無理と思っている。表面上は社長職を息子に譲ったものの、まだ自分がかなりの部分、事業に関与しているし、カラオケ、ゲーム機の東海地区の会長やら、全国の理事を掛け持ちしているので無理と言っている。これもわがままの一つで申し訳ない。
申し訳ないと思いつつも、ロータリーを途中で辞めない理由は、友人と会えるからだ。良き仲間がいて、情報交換ができる、例会の始まる30分前に行って、友愛の席で、年上の偉い人達と座っている。最初は座れなかったが、だんだん10年を超えて座れるようになった。若い人が来てくれれば、決して自分は人嫌いではないので、話しかけてきてほしい。仕事の都合で早く帰るだけで、人との付き合いが嫌いなわけではない。
ロータリーの良さは、異業種の先輩、後輩がいて、色々な話が聞けることだ。大企業の役員、社長で、社員を何千人も雇用している人たちとは、会社の規模も売り上げもレベルが違うのだが、その人たちと、ロータリーでは気軽に話ができる。
メイクアップは良くした。地元でも東京でも、名古屋や海外でも良く各会場に出かけた、長谷川君から、『会社の出張で自分の例会を休んでもよいが、代わりにメイクだけはしてくれ』と言われた。昔の当クラブの出席率は90%あったが、今は80%を割ることが多い、あの数字は良くない。今の若い人はメイクをしないか、もしくは先輩がうるさくないのかのどちらかだろうが、そのメンバーを勧誘した人に責任がある。例会に出席できなければ、他に時間を融通して、メイクすべきだ。他の会場に行くと、初対面では確かに話はできないが、だんだん慣れて来て、色々な話が出来て、友達が出来る。またその友達になった人が吉原の例会に来てくれたりする。そうやってコミュニケーションができるので、メイクは絶対大事で、他にも行くべきだ。あまり話かけてくれない人もいるが、優しく話しかけてくれる人もいる。面倒見てくれる人がいる。その人達と会うことで、自分の勉強になる。
カラオケ・ゲーム業界では、次の世代が育つまで、会長職を80歳までやってくれと言われている。来年古希になるので、会長を辞めたいと言ったら、事務局がそれではまだ困ると言われ、辞めるに辞められない。でも辞めた後は、苦労を掛けている妻とあちこちに遊びに行きたい。このインタビュアー記事に載せる候補写真として、奥さんが3~4年前まで毎年出かけたハワイでのアロハを着た写真が良いと持ってきたが、『それは駄目だ、ロータリーでの俺のイメージが変わるから隠せ』と言ったそうです。
一般から見ると派手と思われる業界ですが、頻繁に海外のリゾート地に研修も兼ねて出かけているそうです。東南アジアでは、タイのプーケット、パタヤビーチ、シンガポール、それにインドネシアのバリ島、ニュージーランド、オーストラリアへとカラオケ業界の親睦旅行があるそうです。ほとんどが海外のアミューズメントを訪ねる視察旅行で、アメリカのニューヨーク、ラスベガス、フロリダ、サンフランシスコなど、何度も行っているそうです。
ロサンゼルスで、日本のカラオケ機器を置いている店を探そうツアーなどもあったそうです。ハワイは毎年、1~2月の寒い時、第一興商の招待旅行があるそうです。常夏のハワイから帰国すると、日本はまだ寒いので、なんでこんな寒い所に戻ってきたのだろう、と思うそうです。グループのメンバーだけで出かけることも、妻同伴のこともあるそうです。海外旅行は面白いし、香港にディズニーランドが出来たから見たいとか、あちこちの遊園地は見に行きたい。仕事がレジャー業なので、かつてバブルの頃は、朝霧高原にレジャーランドを作ろうなど、大きな夢があったが、残念ながら、このご時世では大きな夢は難しいと振り返りました。
写真はロータリー忘年会でのご夫婦、自宅でのご夫婦、会社事務室での市川君、会社の社訓、市川商事ビル外観、テナントまねきねこです。
インタービュアー(高井計弘)の言い訳
市川君の事業は、世の中を楽しませ、活気あふれる社会にしようとするものですが、経済事情をもろにかぶるサービス業でもあり、事業の継続をするのは大変のようです。でも、サービス精神が豊かな市川君は、人生、良いことも悪いこともある、『万事塞翁が馬』、のことわざの如く、平然と受け流し、お話をしてくれました。なかなか、聞けない内容だと思います。市川君は、いわゆる男気のある人だと思います
インタビューは、土曜日の午後1時の待ち合わせでした。本社ビルに伺った時には、1階のカラオケ招き猫店に70歳以上と思われる男女のグループが入店していました。カラオケは、市川君の希望通り、高齢者の楽しみ、コミュニケーションツールになっています。
株式会社 市川商事
富士市厚原516ー2
TEL 0545−72−0960
レジャー業 アミューズメント映像音響設備