今回の企業訪問は、日本料理『はせ川』代表の小口頼一君です。ロータリー歴22年で、2017年7月より会長に就任予定です。職業分類は、日本料理で、平成25年12月、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されています。
さて、その日本料理を天職とし、おもてなしを実践している『はせ川』は、1905年(明治38年)の創業だそうです。今も道路向かい側で商売をされている和菓子の『長谷川』が本家だそうです。本家の『長谷川』の長谷川治三郎さんが、菓子屋で修行し、明治30年頃、先に創業されたと言います。治三郎さんには子供が5人いて、長男が菓子屋を継いだそうです。現在の『はせ川』の土地がたまたま開いたので、治三郎さんの長女が、ここでいわゆる料理屋を始めたと言います。明治45年の商店街の古地図には、向かい側が本家の長谷川菓子屋、そして小口君の家は、『長谷川なんでも屋』になっていて、お料理、仕出しができると書いてあるそうです。創業2年後に、『料亭長谷川』にしたそうです。
当時、吉原商店街は東海道に沿い、交通の便が良く、多くの人が根方からも、大渕からも行き来し、沢山の芝居小屋があり、賑わっていました。町が発展した理由の一つは、吉原地区は水が豊富で、明治から工業地域として発展し、製紙業も隆盛となり、それまで農家だった人達が製紙業を始め、吉原地区の工業の近代化を進めたからと言われます。
小口君の祖父廣重さんは、信州の松本出身だそうです。これまでも、2回ほど小口家のルーツをたどる会を開き、出身地の松本に、お叔母さん叔父さん始め、小口君のお母様や御兄弟一族総勢30人余りで出かけ、お墓参りをしてきたそうです。廣重さんが吉原に来られた理由は、映画関係の技師をしていたからだそうです。仕事の合間に店に料理を食べに来て、御祖母さんと仲良くなり、結婚したそうです。廣重さんは、『長谷川』に婿に入りましたが、名字は、長谷川にしないで、小口姓のままとしたそうです。その後二人で、『長谷川』料理屋を大正、昭和と続けて来たそうです。
先々代は当初ウナギ料理を提供していたそうです。『長谷川』が料理屋として発展していった理由は、一般の人にももちろん料理を出していましたが、もともと吉原地区には芸者さん達がいて、大正の頃から、地域の景気が良くなり、製紙会社の社長などが多数、お店を利用するようになり、徐々に料理の幅も広げようと努力したからだそうです。戦争中は日本全体が緊縮財政を進め、華美な行事は控える時代で、料理店としては、たいしたことはできなかったと言います。しかし、吉原近郊には、日産自動車があり、大昭和も軍需産業の仕事をしていたので、それなりに派手ではないが、料理屋として何とか営業出来ていたそうです。昔は結婚式もよくやっていて、式に仕出し料理を持って行ったりしたそうです。戦時中は、吉原地区は大きな空襲の被害はなく、商売は続けられたと言います。廣重さんは、晩年は、お父様の義昭さんに仕事を任せ、小口君が小学校2年の時に亡くなっています。
義昭さんは、昭和2年の生れで毘沙門さんの高橋堯昭君と旧制富士中学の同級生だそうです。義昭さんは、初めから廣重さんの後を継ぐと決めていて、戦前から廣重さんを助け、仕事をしていました。学校卒業後、すぐに清水市の料理屋に修行に行ったそうです。義昭さんは、昭和20年代前半から妻の信枝さんとともに店を広げていったそうです。義昭さんは、剛毅な性格で、相撲の勧進元もされたそうです。義昭さんが、店の前に『長谷川菓子屋』があるので、字は平仮名の『はせ川』と、店名を変更されたそうです。戦後の食糧難と言われた時代も、吉原地区は比較的恵まれ、食材の調達は余り困らなかったそうです。魚も田子地区から取り、野菜も津田地区など周囲の近在から仕入れることが出来たと言います。
戦後も、吉原の商店街は、なお活気があり、文化の中心でした。昔懐かしいオリオン座、日活、東座、東映など、多くの映画館がありました。数年前に話題になった映画『三丁目の夕日』のように、昭和30年代、東京オリンピック前の古き良き日本そのものがありました。
小口君は、弟さん、妹さんの3人兄弟です。彼は子供の頃は遊んでばかりで、町の友人も沢山、店に遊びに来ていたと言います。ぼんやりと、いずれは家を継げばいいかなとくらいにしか思わず、中学ではテニスやサッカーをしていましたが、今一つ真面目に身が入らなかったと言います。しかし、富士高校に入学後、心機一転し、中学ではなかったハンドボール部に入りました。体は大きくはなかったものの、段々基礎体力が上がり、自分自身をリセットする感じで、肉体的に、精神的にも自信がつき始めたそうです。ハンドボール競技は、性に合い、そして部も強く、県大会にも出たそうです。しかし、当時は清水商業、静岡農業が県大会の2強で、いつもどちらかに当たり、三位止まりだったそうです。卒業後は、18歳以上のメンバーから成る社会人チーム、富士クラブに入り静岡県大会で優勝して滋賀県で行われた国民体育大会にも出場したそうです。
小口君は、大学は、中央大学商学部、商業貿易科に進みました。入学時は、学生運動はまだ終息に至らず、革マル派、中核派が、たびたび大学でバリケード封鎖などをしていたそうです。当時の学生に政治意識が芽生えて来て、旧体制側のままではどうだとか、社会の不合理なものが一気に噴出してきた時代、また国外からも米国のベトナム戦争や、いろんな矛盾が押し寄せてきた時代で、それに触発されて、極端な考えの学生は赤軍派になっています。小口君も、学生運動の結末を、一概に失敗というかはわからず、今なお、その時代を総括することが出来ないと言います。小口君は、ノンポリ派でデモ活動には参加せず、大学でもハンドボールを続けていました。授業は学生運動の影響を受けたものの、卒業に必要な多くの単位は3年までには履修して得ていたそうです。大学3年後半からは、活動家に大学は完全にロックアウトされ、4年生の時には、全く大学の中には一人も入れず、行ってもしようがない状況だったそうです。
そんな大学3年時に、お父様が病に倒れ、手術からの回復も遅れ、約1年の闘病後に、大学4年の初めに亡くなったそうです。当時、御実家は、調理場に3人の職人さん、女性が4~5人で切り盛りされ、義昭さんと信枝さんで忙しく頑張っていたそうです。小口君は、卒業後の将来の方針は立ててなかったのですが、御父さんが病気になり、体調が急変してから、ようやく本気でどうしようと考えたそうです。適当な会社に就職するか、家業の料理屋を継ぐか、しかし、就職はどういう道かも、どの企業を選ぶかもわからなかったと言います。ハンドボールをしながら能天気な大学生活を送っていたと言いますが、義昭さんが亡くなられたことが大きな転機になったそうです。この時、お母さんは小口君の進路については何も言わず、店は閉じずに、職人さん達と頑張って続けたそうです。
大学はその後も、ロックアウトが続き、敷地内に入ることもできず、後はレポート提出で卒業になったそうです。当時、大学は駿河台にありましたが、翌年から八王子に移転することが分かっていたので、卒業式は八王子で行われました。料亭で修行中だった小口君は、卒業式には出席できず、後から卒業証書が送られてきたそうです。
小口君は、義昭さんの野辺の送りを行い、強い決意で、大学4年の6月から調理人を目指し、赤坂の『吉祥』に住み込みで修行に入りました。この店は、当時大昭和副社長の斎藤公紀氏の後輩の日本料理店です。和食料理屋として初めてテーブル席を作ったり、いろんな革新的なことを取り入れたり、隆盛の料理店だそうです。その店で、27歳まで5年間修行し、そのアイデアのテーブル席や掘り炬燵を、自分の店でも後に導入しています。修行前までは、実家では洗い物だけで、本格的な料理など一切したことがなく、料理を一から学び、一日も早く、実家に戻らなければと、必死だったと言います。料理学校でゆっくりと学ぶような余裕はなく、辛かろうがどうだろうが、即座に技術を叩き込んでくれる現場で学びたかった、後がないと思い、これまでの人生で一番必死に努力したと言います。
当時は、店に住み込み人用の内風呂はなく、赤坂の銭湯に出かけて、また店に戻り、おかみさんが店を午後11時に見回った頃を見図り、11時半頃からもそもそと調理場に行き、残っていたエビでてんぷらを揚げたり、はもの刺身を練習したりしたそうです。見習いの料理はお客に出せないので、必死に先輩の技術を盗んだそうです。
2年目にふぐ調理師の免許を取りたくて、新橋のふぐ料理を教えてくれる他店に習いに行き、試験に合格したそうです。午前4時半に起きて新橋に出かけ、待っていて6時から一番で習ったそうです。当時の給料は6万円で、一回、習いに行くと5000円かかる、週に2回行って、ふぐがどういうものかを習い、時間との兼ね合いもあり、10回行って、月給の大半が無くなったと言います。実家には申し訳ないので仕送りはしてもらわず、暮らしたそうです。早くふぐ調理師の免許を取ることが出来たものの、仲間からの嫉妬もあり、隠忍自重の生活を送り、修行4年目で、ようやく形になったかなと思い、5年で実家に戻る準備をしたものの、最後まで料理は自信もって出せなかったと言います。赤坂店では、メインの料理人の補助の立場だったと言います。
小口君は、今日のインタビューでもなお、料理の奥深さを訴えます。
料理を習得するのは、5年では無理で、最低10年が必要だ。包丁を扱うなど単純と思われる技術的なこともそうだが、奥底の所で『物の考え』が、理解できているような、理解できていないような状況だ。料理というものはどういうものなのか、口だけの説明とか、見様見真似の体裁は整えられるが、自分で自信をもって、料理はこうだ、味付けはこうだ、と言うのは難しい。味付けで最初に、どうしてもわからなかったのは調味料のお醤油、塩、砂糖、みりん、酒、酢で、これらをどのように割り付けるのかけ扱ったらよいのか、どういう基準があるか、わからなかったと言います。
一方、西洋料理はソースが味付けのベースですが、日本料理はまず素材があって、その素材に対してどうやって味付けをしていくのか、料理を作る人の物の考え方が反映するものだ。最初は、いくら人から繰り返し言われても、理解できなかった。本からの知識は頭の中ではわかっても、それが今度は自分の中ではこうなんだと言うこと、芋はこういう風に煮るんだとあっても、その目的が、素材の色を出したいのか、お酒の肴にしたいのか、ご飯のおかずの副材にしたいのかでは異なる、それが本には書いてない。大まかのことしか書いていない。それがわかるまでには不安でしょうがない時期があった。そうこうしているうちに、何となく少しずつ、そうかと分かってきた。お昼の芋はこうしてご飯に合わせる、夜の芋は酒に合わせてこうすると、わかってきた。芋も、里芋もあれば海老芋もある。全然味が違う、それらに同じ味付けをすると、素材を殺してしまい、もったいない。里芋、海老芋にはそれぞれの良さがある。味がしみこみやすい、味が違うなど、魚にはどう使うか、だからその場で何を使うかという判断、その料理人の持っている振幅、引き出しが判らなかった、と言います。
しかし、5年の修行では、心底まではわからなかったが、実家に早く戻らなければと焦り、時間の制限もあった。満足がいくまでには判らないが、実家を立て直したかった。実家には古くからの料理人がいて、戻ってきた自分との確執はあった。古株の料理人も、後継ぎの若造が少し修行したからと言って何をやっているだ、やってみなと見ていた。35歳ぐらいまでは、昔からの料理人の顔も立て、隠忍自重だった。相手の料理にも合わせていたが、だんだん、自分の味も出そうと努力し、先輩として上には2人いたが、このままの味ではどうかと思い、若い人も入れて徐々に世代交代を進めた。苦しい時でもあった、と、昔を思い起こしながら、答えてくれました。
小口君は、28歳でお見合い結婚をしています。奥様は、山梨県出身で三井信託銀行の外為部に5年勤続し27歳でした。小口君の一目ぼれで、写真を1回だけ見て、すぐに閉じて『是非、よろしくお願いします』と、仲人さんに言ったそうです。お見合いの時の奥様の写真を、今でも飾ってあると言います。奥様の御両親は電気店でしたが、やはり時代の流れで、近くに大きな電気量販店の進出があり、経営も厳しくなり、新たに御母さまが店の半分のスペースで化粧品店を開いていたそうです。そんな大変な小売店の商売を見ていた奥様は、年中無休の商売のお店の嫁ぐのは嫌だと思っていたようですが、小口君の『結婚してください』の熱意に負けたようです。二人の結婚当初は、まだ昭和の良い時代で、吉原商店街は賑やかで、ヤオハンデパートもありましたが、その後、だんだん、商店街の外に駐車場付きの大型スーパーが出来、平成に入ってからは、商店街は大きく様変わりしていきました。
熱心な小口君は、実家に戻ってからも、なお自分は料理の基礎はできていたが、全体を俯瞰する骨組みはできていなかったと思い、見栄えでだけではなく、料理という作品にさらに何かを肉付けをするには、料理人の感性の熟成が重要と考え、各地の有名料理店を訪ねたそうです。それらのお店の真似をしてはいけないが、そのお店が持っているエッセンスを自分の体の中にいれて、時間をかけて考えると、ある時、それがふぃっと自分の引き出しから出て来て、自分の感性になり、表現したいものになってきたと言います。少しずつ、これは美味しい、いや美味しくない、それはなぜだろう、の疑問が解けた気がしたとも言います。
小口くんは、35歳で青年会議所に入り、5年間所属しました。当初は入会すると、店が忙しくて何もできなくなると、躊躇したそうです。現在、日曜の昼は営業し、夜は休みですが、当時は、日曜は一日休みでした。30歳代はとにかく、自分を確立するため必死の思いだったそうです。それまで、学生で青春を謳歌していましたが、お父様が急死され、切羽詰まっていた、このままでは自分も家も駄目になる、一体これから俺は何をしたいんだと思った時に初めて必死になったと言います。兎にも角にも、自分の修行時代の10年をお母様がつないでくれたことを、ずっと感謝していると言います。30歳の時に、思い切って店を広げました。怖いもの知らずでもあったと言います。小口君が40歳ごろまでは、まだ吉原界隈に芸者さんがいて、最後の芸者が辞める時は、青年会議所の仲間で芸者さんを呼んで慰労したと言います。
40歳代は、体力にも自信があり、店も他の料理人に任せることも出来、余裕が出てきたので、ゴルフで随分、遊んだと言います。一生懸命働いていたものの、まだのんびりした時代で、吉原商店街もまだ勢いがあったと言います。色々なお店を回って料理研究をしたついでに、ゴルフもしていたようです。
平成16年に隣の和菓子、洋菓子の老舗の中村屋さんが、街中での営業を止め、移転した際に、隣接する土地を購入し、駐車場にしました。それまでは商店街の敷地は、広げようとしてもぎゅうぎゅうの状態でした。かつてのような、商店街に社用族がタクシーで来たり、周辺の人が岳南鉄道の吉原本町駅や、バスで吉原中央駅を利用していた時代は良かったが、今はみんなが車で来て代行車で帰る時代なので、是非とも駐車場が必要で助かったと言います。自分の才覚よりも外からの要因で良かったと言います。
50歳代は、趣味のゴルフの集大成の時だったと言います。50歳の時に、都道府県対抗葛城ゴルフ大会で、県大会予選に2年続けて、2日間、トップクラスの人達と一緒にラウンドすることができた。この夢を実現したことは、ものすごい自信になったが、トップアマのプレーを見るとレベルが違い、もっと飛ばさなければと自分を見失い、ゴルフがおかしくなったとも言います。長く続けている趣味はゴルフ一本で、ロータリークラブでもゴルフ部に所属し、このスポーツは性に合っていたと言います。
他の趣味は、時間がないので長くはやらなかったが、裏千家の茶道を20年していたと言います。季節のお茶会などで亭主としても、いろいろ参加した。しかし、膝を痛めて、手術もして、正座が出来なくなり、今はしていない。料理の一端に役立つかと思い、池坊のお花も3年稽古し、小唄も静岡から来た芸者の先生に5年間、習ったそうです。三味線も短期間、習ったと言います。
商売柄、各種の和の道を究めなければいけないと言う思いはあったが、お菓子作りまでは、手が回らなかった、作ることは作るが、通り一遍しかできない、自分の能力からすると、お菓子までは至らなかったと謙遜して言われます。本格的なお菓子を作るのは大変で、確かに、お菓子をやりたい気持ちはあるが、あれもこれもと手を出すのは無理、もっと充実させたいと思うが、自分の時代では精一杯で今度お店に入る息子さんに期待している、と言います。
息子さんは、今は東京で修行されています。小口君と同じく富士校でハンドボールをやり、小口君からは『良く遊べ』と教育されていたので、大学は料理とは関係ない道を選びました。明治学院大学でゴルフ部のキャプテンをして、小口君が、卒業時に『何でも自分の好きな道を選べ』と言ったら、息子さんは『店をやる』と言ってくれたそうです。小口君も御父さんから無言のまま教えられたように、息子さんも道を選んでくれたと言います。これからは息子さんがお店を継承するが、小口君と同じことはできないだろう、小口君はお父様が亡くなられてしまった後からの修行なので、ワーッと突っ走ったが、息子さんはすでに敷かれたレールみたいのがあって、かえって『創業は易し、守勢は難し』で、成長するのは大変だろうなと言います。息子さんの好きなようにさせるために、そのうちに奥さんと2人でどこかに行こうかと考えてると笑いながら言いました。
Q.ロータリーに入会したきっかけは何ですか。入会してどんな経験をされましたか?
ロータリーは、直接は奥野廣一さんに誘われた。奥野さんは以前から、店のお得意さんでありよくロータリークラブも、店を利用してくれていたので、ロータリーの実情はわかっていました。平成7年の入会で、吉原ロータリー40周年の時でした、世の中はバブルも崩壊し社会情勢が少しずつ変わり始めた時であり入会するかどうか迷いましたが、お店だけの仕事では駄目と判っていたお母さんの信枝さんからも、ロータリーにはいりなさいと勧められたそうです。信枝さんは、義昭さんが亡くなり、店の存続も大変な時期に、今、息子を修行に出さなければ駄目と、孤軍奮闘していた気丈な方です。
小口君は第一分団に入り消防活動も10年やり、青年会議所の仕事も勤めあげ、いずれはロータリーのような会に誘われる自分になりたいなと思っていたそうです。もう少し自分も頑張らなければいけないと思い、久保田静雄会長の時に入会しました。結果的には非常に良かった、感謝している、自分の人間形成に良かったと言います。ゴルフが好きだったので、和気あいあいとやって、初めから先輩にも慣れていったと言います。人は、自分だけの生活では狭い殻に入ってしまっていて駄目だ、その人のカラーとは言うものの、持っているはずの可能性が広がらない、料理の探求と同じで、いろんな人と知り合うことによって、こうなんだと、判らないながらも、良い人の行動を真似るのではなく、良い所も悪い所も吸収していく。そうすると自分が熟成していくような気がする。異業種の集まりが良い、一流の人がいて、その中で学ぶことが沢山ある、非常に良かった、と言います。
ロータリーに参加するのは、営業時間との調整が大変だった。お店は昼も夜も営業しているので、思うようにはいかなかったと、言います。ロータリーの思い出は、一つは親睦活動で、親睦の仕事は、大変と言えば大変だが、皆さんに楽しんでもらえるか、と考えた。親睦委員長の時の企業訪問は、東京電力の川崎石炭火力発電所に行った。夜は横浜中華街に行ったが、上海ガニ解禁の日に当たっていた。NHKから、そのインタビューを夜のニュースで放送して良いかと打診があったので、どうぞして下さいと言ったら、田中祐君が全国放送の画面に現れ、見ていた全国各地の友人から、『なぜおまえがテレビに出ているんだ』と、言われたそうです。熱海の有名店さくらやで祝寿の会を催し、芸者さんを10人ほど呼んで、三味線も弾いてもらった。ちょっと変わったことをしたかった。しかし、終わってしまうと忘れてしまうものだと言います。
もう一つの思い出は、米山財団委員長をやったことだ。富士市に常葉大学があり、元々そこの学生がお店のアルバイトをしていた縁もあったが、そこから米山奨学生に出願して合格した中国人留学生、呉さんのカウンセラーになったが、その経験は非常に勉強になった。呉さんは、卒業後、中国の島津製作所に入社した。彼女は義理堅く、結婚する時は是非来てくれと言われ、実際、3泊4日で蘇州の結婚式に妻と結婚式に出た。中国人の考えは合理的で、結婚式には、招待状、席次、式次第などはなく、カルチャーショックを受けた。結婚式が始まる決まった時間はなく、来訪者もバラバラと来て、勝手に食べて飲み始め、自分たちが参加した時は、あちこちですでに食べて飲んでいた。終わる時間も決まっていなく、みんなバラバラと帰って行った。この様な行動は、日本では失礼に当たるが、中国ではみんな忙しいのに、時間を割いて来てくれて有り難い、我々の料理をお腹いっぱい食べてください、そして満足したら帰っていいですよ、という考えに驚いたと言います。中国人の個人主義と合理主義は、集団で決まったことをする方が安心感をもつ日本人には真似ができないと言います。
米山梅吉財団が、奨学生をを始めた意図は、アジアの人に日本というものを知ってもらおうとしたことだ。今の日本と中国、韓国の間には、多くの難しい政治問題もあり、そんな活動をしても意味はないという考えもあるが、やはり必要な事なのだと思う。お互いが理解をしていかないと国と国の相互理解は、建前とかイデオロギーでうまくいかない。最終的には人との交流、米山財団がしたことはすごいことだと思う、自分は米山の意思は継いでいきたいと、言います、
幹事の仕事は、時間的に無理だと思い受けなかったと言います。会長職も大変と思い、数年前にも頼まれたが、息子が戻るまでは無理と言って、待ってもらい、次年度でお引き受けすることになった。今回、会長になれば、あまりお店の仕事に首っ引きにならず、留守の時間を作った方が、帰ってきたばかりの息子の重しにならず。その方が良いかなと思うと言います。
就任直前だが、会長の抱負は特にない、これまで先輩から踏襲してきた部分がある、古い良い伝統がある、それから、いかに新たな道に向かっていくか、高齢化に向かう時代に若い方が入ってこないと成り立たないだろう、40歳代の人が入ってきて、その方々に良き伝統を理解してもらいながら、自由にやって行けたらと思う、と言います。
一年前に、アメリカのカリフォルニアの南、世界の3本指に入ると言われるぺブルビーチゴルフ場に行った。素晴らしかった。ログハウスもあり、家の中でたき火をくべながら、気の合った先輩後輩たちと10数人で一緒に行き、楽しかった。
妻をぺプリビーチに連れて行くと約束している。妻もゴルフをする。ゴルフのできるうちは、あちこちに行きたい。妻もなかなか店以外の所に出ていく機会がないので、ロータリーの会、旅行に連れていきたい。最近は若いメンバーが奥さんを連れてこないので寂しいなと思う、できれば旅の会などを奥さんと一緒にもロータリーライフを楽しんでもらいたい。
写真はロータリークラブ忘年家族会の時の小口ご夫婦。お店の写真です。歴史的な古い写真は、不幸にも昭和46年に近所からのもらい火で、自宅側を全焼し、無くなってしまったと言います
インタビューアー(高井計弘)の言い訳。
インタビューアーは、毎日、日本人だからと当然のように和食を頂き、お接待を受けてもその本質が判らないような無頓着な人間なので、小口君の話をより理解するために、少し日本料理の豆知識を、文献から、以下の如く、入れました。
ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食;日本人の伝統的な食文化」とは、南北に長く、四季が明確な日本には多様で豊かな自然があり、そこで生まれた食文化もまた、これに寄り添うように育まれてきました。このような、「自然を尊ぶ」という日本人の気質に基づいた「食」に関する「習わし」を、「和食;日本人の伝統的な食文化」と題して、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
「和食」の4つの特徴は、
(1)多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重
日本の国土は南北に長く、海、山、里と表情豊かな自然が広がっているため、各地で地域に根差した多様な食材が用いられています。また、素材の味わいを活かす調理技術・調理道具が発達しています。
(2)健康的な食生活を支える栄養バランス
一汁三菜を基本とする日本の食事スタイルは理想的な栄養バランスと言われています。また、「うま味」を上手に使うことによって動物性油脂の少ない食生活を実現しており、日本人の長寿や肥満防止に役立っています。
(3)自然の美しさや季節の移ろいの表現
食事の場で、自然の美しさや四季の移ろいを表現することも特徴のひとつです。季節の花や葉などで料理を飾りつけたり、季節に合った調度品や器を利用したりして、季節感を楽しみます。
(4)正月などの年中行事との密接な関わり
日本の食文化は、年中行事と密接に関わって育まれてきました。自然の恵みである「食」を分け合い、食の時間を共にすることで、家族や地域の絆を深めてきました。
もう一つ、小口君のような職業に密接な「おもてなし」とはなんでしょう?おもてなしO-MO-TE-NA-SHIは2013年の流行語大賞にも選ばれています。辞書では下記のように書いてあります。
1 客を取り扱うこと。待遇。「手厚い―を受ける」
2 食事や茶菓のごちそう。饗応。「茶菓の―を受ける」
3 身に備わったものごし。身のこなし。
4 とりはからい。処置。取り扱い。
「もてなし」は、「サービス」とは少し意味が違い、「もてなす」は英語のホスピタリティーマインドに近く、ホスピタリティは病院(Hospital)と語源を共にし自分の家に訪ねてくる人(=お客様)をお迎え・お世話することなので、当然対価や見返りを求めない自然発生的な対応と認識することができます。巡礼する異邦人を歓待することを意味したそうです。家族と接するように、見返りを求めない対応と言われています。
インタビューアーは、小口君より少し若く、団塊の世代の後の、『無気力・無関心・無責任』の三無主義と言われた時代の人間です。そのあとの世代は、『新人類』と言われ、最近は『ゆとり世代』と言われ、社会の変化とともに少しずつ日本人の特質が変わっているようです。
ロータリークラブの先輩の歴史、お考えの一端をお聞ききすることは、自分に置き換えて考えればどうだろうとかと、非常に興味があり、お話を素直に聞けたことを感謝します。
今回の和食の素材の芋は、イモ、いも、芋、薯と書くだけでも、伝わり方が違います。ダイエットもしなければいけないのですが、これからは心して御料理を頂きます。
日本料理 はせ川
富士市吉原3−3−14
TEL 0545−52−0343
日本料理