今回の企業訪問は、株式会社富士ホンダ代表取締役増田正之君です。会社はHonda Cars 富士東の本社・依田橋店、静岡市SBS通り店、そして富士宮市オートテラス富士から構成されます。いつも笑顔を絶やさない気さくな先輩です。まさにお話を聞くと、ホンダ創業者の本田宗一郎氏に憧れ、それを追いかけるように日本の高度成長時代、更にはバブルの氷の時代、中国進出の苦闘なども、真摯な営業努力で乗り越え、企業を発展させて、地域社会に貢献している方です。
増田君のお父さんの荻野留吉さんは、富士市原田の生まれで、子供のいなかった増田家に養子に行き、増田姓になっています。お父様は、横河橋梁という橋を作る会社に就職されていましたが、昭和15年頃に北京に赴任しています。当時は日中戦争の最中であり、抗日戦争をしていた中国共産党の八路軍に、日本が作った満州鉄道の橋がたびたび破壊工作を受けるため、住人の満州人を使って橋の修理を担当していたそうです。その赴任地で、兵士として現地招集になり、自動車部隊に配属されたそうです。その時に、同じく富士の大野新田生まれのお母様の勝子様と結婚されたそうです。増田君は昭和18年に、そして妹さんも北京時代に生まれています。
しかし、昭和20年8月15日に日本の敗戦を迎え、その後の4か月を、御両親は辛く悔しい思いをしながら、日本人同士集結して、女子供を守り、中国で耐えていたそうです。そして、昭和20年12月に、中国から追われるようにほとんど全財産を置いて、親子4人、命からがら長崎県佐世保に貨物船で引き揚げてきたそうです。御両親の家族を最後まで守ると言う強い意志がなければ、増田君は、一つ違えば、中国残留孤児になった危険もあったそうですが、お父様は、この時期のことは話したがらなかったそうです。
その後は富士の増田家に戻りましたが、異母兄弟に家を譲り、お父様は別に、生家の原田近郊の農家から野菜を仕入れ、それを売り歩く行商をし、沼津などにも売りに行ったそうです。しかし沼津のチンピラに絡まれ、ショバ代を要求されることもあり、このままではいけないと言う思いを強くしていたそうです。
その後、大野新田に住んでいたときに、たまたま近所で自転車が壊れた人に修理を頼まれ、それをいとも簡単に直したら、『お前は器用だ』と言われたそうです。その些細なきっかけから、兵隊時代に自動車隊にいて修理の心得もあり、その技術を商売に生かそうと、思いついたそうです。戦後で富士には十分に自転車がなかったが、都会の横浜では手に入ったので、家族が寝ている間に、最終便の列車で横浜に向かい、翌日、中古自転車を1~2台仕入れて電車でそれを運んでくる。中古自転車を修理して、きれいにして、売った。その繰り返しをした。それがきっかけで、お父様が、昭和26年に現在の鈴川本町に増田自転車店を開業したそうです。鈴川駅(現吉原駅)の駅前は、人が集まるので、自転車の需要が増え、時流に乗り、売れに売れたそうです。しかし先見の明があるお父様は、次にはオートバイの時代が来ると思い、駅前では商売にならないと、昭和33年富士市依田橋に『吉原サイクルセンター』として第二拠点をオープンしています。ここは現在の自社中古車センターになっています。
増田君には、その後、教師になった友人が多く、本当は学校の先生になりたかったと言います。高校も特に工業高校は選ばず、しかし長男だから、家業を継げと言われ、自分の将来は継ぐしかないと思っていたそうです。高校3年の時に、1年先輩が高校卒業に運送会社に勤めていたが、その会社を7月に辞めてしまい、学校に来て、『増田、これからは大学に行かなければ駄目だ。俺は運送会社に就職したが、今は良いが20年後には駄目だ、俺も学校の図書館でもう一度勉強して大学を目指すから、お前も授業が終わったら図書館に来て、勉強しろ』と言われ、一緒に勉強したそうです。
大学に進学し、学校の先生を目指そうと、お父さんにお願いした所、大学進学は、『100%絶対に自宅に戻って家業を継ぐこと』を条件に許されたそうです。お母さんからも、『お父さんが、そう言っているから、そうしなければいけない』、『そうでなければ大学に行かせてもらえないよ』と言われたそうです。自宅に戻り仕事をしていることを、今となって思えば、かつての同級生で教職に就いた者は退職しているが、自分はまだまだ現役で働けている、ご両親の言うことを聞いて良かったと言います。
その当時の大学の進学率(昭和36年で、男性15%、女性3%、全体で9%)は低く、中学の同級生の半分は就職した時代です。大学には家から通うのが条件だったので、条件の合う大学を色々探したが、結局、昼間部では通えないので、夜学の二部なら行けることが分かった。それで法政大学の夜学の経済学部に入学しています。午前中に自宅で仕事をして、午後から東京に行き、授業を受けて、最終便で帰宅する毎日で、それを4年間続けたそうです。当時の東海道線は、鈴川駅から、沼津駅で乗り換え、東京駅まで片道3時間、往復6時間なので、今でもすべての沿線の駅名が言えると言います。この通学が自分の時間で、半分は寝ていて、半分は雑学の本を読んでいたそうです。とにかく、大学時代は勉強と通学だけなので、高校時代はスポーツをしていたが、大学では何も運動などはできなかった。中央線飯田橋の大学に着いて、当時38円の大盛りのカレーを食べて勉強した。途中で、やはり教職に就きたくて、大学2年の時に教職課程を取ったと父に言ったら、『バカヤロー、それならこの店は誰が継ぐだ』とものすごく怒られた。とにかくお父さんは、怖く、お母さんからも、『お父さんに余分なことを言うな』と言われ、卒業後、すぐに素直に自宅に戻ったそうです。
その頃、将来の提携先になったホンダは、昭和33年に超ロングセラースーパーカブC100を発売しています。増田君が大学3年頃に、世の中のオートバイブームを実感したお父様から、『増田自転車店の名刺を持っていけば、業者の値段で買えるので部品を買って来い』と言われたと言います。東京御徒町の自動車の部品を扱う店をあちこち回り、初めは学生だったので相手にされなかったが、しょっちゅう来るので、そのうちに店も顔を覚えてくれたそうです。
大学卒業後は、増田自転車店はそんな余裕がなかったので、増田君は他店に修行などにはいかず、お父さんと一緒に自転車のパンクの修理などを始めたそうです。お父様とは仕事を割り振りして、鈴川と依田橋でそれぞれの店を切り盛りしたそうです。時代は、日本の戦後高度経済成長時代に入り、扱う商品は、自転車からオートバイになり、一世を風靡したオートバイもあっという間にすたれ、4輪車の時代になったそうです。
昭和36年には、増田自転車店は、本田技研工業(株)と二輪車スーパーカブ号の代理店契約を締結し、商売の仕入れを教えてもらったそうです。しかし商品を売りには売ったが十分な修理ができないので、沼津にある東海ホンダモータースに、夜にオートバイを飛ばして技術を習いに行ったそうです。当時の会社は、お父様と増田君の2人で、増田君は商売を覚えるのが先決で、支払いは月賦販売のため、時に集金が滞ることもあり、お母さんからは、『集金の仕方を勉強しなさい』と言われたそうです。
提携店にホンダを選んだ理由は、当時からスズキ、ヤマハなどもあったが、最終的にはホンダ創業者本田宗一郎氏の心意気に惚れたと言います。東京ホテルニューオータニで新春大会があり、全国の販売店が招かれ、お父様の代わりに出席した増田君は、本田氏と握手をしたが、それだけで、『常人とは、全然違う人だ』と思ったそうです。本田氏は、『よく来た、どこから来た、富士か、そうか、俺は天竜だ』と握手をされ、真っ赤なネクタイ、真っ赤な靴下で、力強い手が印象だったと言います。増田君は、その感激を『俺の手』という詩を書いて投稿したことがあると言います。俺の手と創業者本田宗一郎の手を比べて、『俺は未熟だ。本田氏のようになりたい。本田氏は、尋常小学校出身だけなのにここまで成し遂げたすごい人だ、よし、この人についていこう。』と思ったと言います。
その後、増田君の会社でも、スーパーカブは大いに売れ、会社は大きくなり、従業員も増えていきます。39000円のカブがスタートで、その後、45000円になり、55000、60000円になり、今は160000円になりました。しかし、商品は売るだけでは終わらず、アフターサービスが大事であり、その当時は労働基準法もなかったので、開店時間など関係なく、朝5時でも新聞配達員がパンクしたと言ったら、手も冷たいのに、修理に出かけたり、リヤカー等も直して、お客様のために365日働いたと言います。
その間に提携先のホンダも、昭和38年にはHonda初の四輪車スポーツカーと軽トラックを発売しています。昭和42年にはFF方式採用の軽自動車を発売しています。増田君の会社は、ここが事業の攻め時と考え、昭和43年11月には、これまでのオートバイだけではなく、四輪車販売に伴い、社名を『富士ホンダ販売』に改組しています。
増田君は昭和45年に結婚し、奥様の協力も得て、ますます事業を伸ばし、家庭でも2女、1男を得ています。その後も、ホンダは、アコード、シビック、シティの人気車を発売しています。増田君の会社も、昭和58年6月に富士市依田橋に新社屋をオープンし、『株式会社富士ホンダ』に組織変更し、ホンダも次々に、トゥデイ、レジェンド、クイントインテグラなどを世に出し、まさに増田君の会社は、ホンダとともに成長していきました。
昭和63年6月にお父様が亡くなられ、二代目社長に増田君が就任しました。日本はバブル絶頂期で、車が良く売れたと言います。ロサンゼルスのホンダ工場を視察に行った時に、ロサンゼルス空港の駐車場にはホンダ車がずらりと並び、ここは日本なのか、アメリカなのか、一瞬、迷ったと言います。増田君は、
早く県下一のホンダのディーラーになりたいと思い、更に努力したと言います。
この時の従業員は20人前後で、オデッセイ、シビックと人気車を扱い、会社の社是として『世界の客を相手に、安心かつ安全な車を提供する』だったと言います。社員からは、『世界の客を相手にする社是は、実際は富士のお客さんだけなのに大袈裟では』と言われたことも気になり、平成7年12月、たまたま富士商工会議所から、中国嘉興市と姉妹提携をしているが、経済進出する会社はないのかと言われ、真面目な増田君は、それとばかりに手を挙げたが、実際、富士市から進出したのは、自社1社だけだったと言います。
中国進出には、増田君が北京生まれなので、何となく、生まれ故郷の国で会社を持つのも宿命かなと思い、親近感もあり、決断したと言います。しかし、初めの話では、ホンダの販売会社設立のつもりだったが、中国共産党の国の方針で、『車の販売は国同士の決まり事で行うので、民間の一社が行うのは駄目だ、修理会社にしろ』と言われたそうです。嘉興市と増田君の会社の合弁会社だが、『中国には金はないので、一切出せない、日本が出せ、土地なら提供する』と言われ、先行きの不安を感じつつも、「嘉興富士汽車維修有限公司」を、増田君側が3000万円(現在なら3億円)を出資し、中国は3000坪の土地を用意し、設立したと言います。常駐の日本人は置かずに、嘉興市側の役人に任せたところ、選定した修理会社の建設予定地には、なぜか4階建てホテルが造られてしまい、クレームを言ったら、そのホテルの後方に工場を建てるから、別にもっと金を出せと言って来たそうです。中国側の言い分は、『車の修理を依頼する人がホテルに泊まり、翌日修理を終えた車を持って帰るので、ホテルは必須だ』とのことです。もっともらしい言い訳で、取り繕われ、すでにホテルもできてしまっていた。更には、テナントにした1階の店から家賃が多少入っても、その金は運転資金に必要だと言われる。『決算書を見せてくれ、経営内容を知りたい』と言ったが、駄目で、富士市の国際交流の担当者や、富士信用金庫の為替担当も一緒に行ったが、埒が明かない。それに修理工場はできたが、中国にはまだ自動車がそれほどない時代で、せいぜい嘉興市の人民政府のライトバン、自動車の修理を行う程度だったと言います。
結局のところ、毎年同じパターンで商売(仕事)をしていたそうです。自社の負債だけが大きくなり、利益の回収どころか、投資した金額も回収できない状態になったと言います。合弁企業側は、事業を継続したいと言って来たが、もうできないと思ったが、このまま帰国するのは悔しいので、『そんなに金が欲しいならば中国政府の銀行から借りてやったらどうだ』と言ったそうです。すると、『何とか日本から500万でも、100万でも金を送ってくれ』と泣きついてきたと言います。合弁会社は、なおもしつこく『もっと仕事が取れるから』と言われたが、もう終わりにしたいと断ったそうです。すると『工場や機器はおいて行け』と言う。結局、なんだかんだと、投資のお金はほとんど戻らなかった感じで、平成12年に嘉興市との提携は解消したと言います。
この辺の中国事情の顛末は、今や習近平主席が、『ハエも虎も叩く』と言って、中国の公務員の汚職のひどさを認め、すでに何百~何千人もの役人を裁判所に引っ立て、牢屋に押し込んでいる実情を、公にしていることなので、『さもありなん』とインタビューアー(高井計弘)も事実と思いますが、今後の日中間の改善を期待して、この辺で抑えておきます。
増田君の中国進出の教訓は、『おいそれと人を信用してはいけない。』だそうで、高い月謝だったが、貴重な社会勉強だったと言います。もし中国で成功したければ、日本の事業をたたんで、中国に住み、現地の会社の椅子に座って、中国語がわかろうがわかるまいが、経営収支の帳面を見て、にらみをきかせれば何とかなったかもしれないと言います。
しかし、その間も富士市での事業は順調で、従業員も優秀で、どんどん人が育っていったと言います。
提携のホンダも、平成11年にハイブリッド車インサイトを発売し、自社も平成9年9月静岡市に静岡SBS通り店をオープンし、平成11年11月に富士宮市にオートテラス富士をスタートさせています。
しかし、バブルからの回復も遅々と進まない平成18年3月には、社会情勢の変化に対応すべく、これまで提携会社のホンダが、個性の明快さを謳い、3種類のプリモ、クリオ、ベルノ店に分かれていたが、それを一つに統合するHonda Cars政策により、増田君の会社もHonda四輪全車種取り扱うことが出来るようになり、屋号をHonda Cars 富士東に変更しています。事業を拡張して全車種を扱い、敷地も以前からの320坪に、隣のガソリンスタンドを買収し300坪、更に隣に400坪を借りました。現在の、従業員は50人になり、増田君は、現在、静岡、富士宮店にも1週間に1回顔を出していると言います。
増田君の会社の方針は、『地域密着、まずはお客様に愛されること、地域社会にいかに貢献して税金を納められるか。利益を3分割し、1/3は税金、1/3は将来の会社のための内部留保、1/3を社員に回す。社員が、この商売の基本、三方良しの考えを、理解してくれればうまくいくし、不平不満を言わず、働いてくれる。毎月どれだけ利益が上がったかを公表している。利益率がどうだと、具体的に説明している。』と言います。
また、息子さんの教育については、自分が学生時代に出来なったことを、息子にさせたかったと言います。息子さんに、『大学に4年行った後に、お前は何をしたいのか。1年間は好きな時間を与える。』と言ったところ、『一人で世界1周をしたい』と答えたそうです。その希望を叶えさせ、『帰国したら修行させる』と言い、北海道のホンダの販売店、一番寒い所に3年間修業に出し、3月まで働かせ、最後は1か月間お礼奉公をさせました。息子さんはその通り、4月は無給で働き、5月の連休に戻ってきたそうです。現在、息子さんは営業本部で、増田君のかばん持ち(常務取締役)をしています。
車の販売相手は、個人が90%、法人が10%で、個人のお客様が主体の会社と言います。
増田君の事業は、振り返れば、入社した社員に恵まれ、社員は自分を信用してくれたと言います。彼らに任せると『ありがとうございます、やりがいがあります』と言ってくれる。それに、良い商品、ホンダという良い会社にも恵まれた。本田宗一郎氏に惚れてよかった、と言います。
全国のホンダの販売店の息子さんを預かり、教育を引き受けて、自社の社員と切磋琢磨させたことも、社員が評価してくれた。自分の息子もそうしたように、逆に石川県のホンダの息子や三重県の販売店の息子などを3年間預かり、送り出したが、彼らは、後に皆、成功してやっている。自分が50歳前に、そのような教育を一人受けてはまた一人と受けて、全国の販売店からは、「増田学校」と呼ばれた。おかげで、自社の社員の能力も向上したと言います。
増田君は、現在73歳になり、一生懸命働いてきたが、自分の想いの半分もできたか、わからない、まだまだ満足はしていない。しかし、妻からも、『今までご苦労様、そろそろ息子に事業を任せる時期。』と言われている。自分自身も、息子にどういうタイミングで事業をバトンタッチするか考えていると言います。今はメーカーと相談し、金融機関とも相談し、『息子をよろしくお願いします』といい、継承については、OKが出ているそうです。
Q.ロータリーはどうして入会されましたか?
50歳前頃から、いくつかの方面から入会の打診はあったが、その頃は特にどこの団体にも入らず、あらゆる誘いをお断りしていた時期だった。50歳の時に、吉原高校のPTA会長を受け、終了する時に、ロータリー入会の誘いが、長谷川篤さんからあった。長谷川さんがその前の吉原高校のPTA会長だった。長谷川さんと、ゆっくり話す機会があり、もう50歳でそろそろ社会に何かを返す時期に来たと思い、よろしくお願いしますと言い、入会した。ただし、『ライオンズですか、ロータリーですか』と聞いたら、長谷川さんに『馬鹿、俺はロータリーだ』と言われてしまった。
入会時のイメージは、当時平成4年はメンバーが、80~90人いました。例会に皆が真面目に来れば、ホワイトパレスに入れないほど満員の時代だった。バブルの絶頂期で、あちこちの製紙会社、静岡銀行、スルガ銀行、中央銀行、富士信用金庫、三洋や角丸証券会社、東京電力、農協などが入っていた。自分は、一番年下で、名前を覚えるのが大変で、カメラで写真を撮らせてもらい、焼き増しして、手帳にそれを貼って顔を覚えた。この人が○○さんと覚えるのが精一杯で、毎回緊張していた。こんな偉い人と口を聞いてよいのかと思った。ジャンボエンチョーの遠藤社長もいたし、田島鉄工さん、志田商会さんもいた。現在、パストガバナーの毘沙門さんが座っているテーブルが大物の人達のテーブルと決まっていた。そこに新人が配置され、お世話をする、誰がどこに座り、お茶をつぐということをしていた。お茶くみに慣れるのには1年かかった。その時代は、人数が多くて、各委員会の委員長などは回ってこなかった。5~6年たっても、委員だけをしていた。少しでもロータリーに早く入れば、年下でも先輩だ。その先輩たちから得るものは多く、異業種の集まりが良かった。
自分は60歳までは、ロータリーの欠席率が高かった。仕事が忙しくて、どうしてもホームクラブは欠席することがあった。木曜日の例会がどうしても合わないが、しかし負けずぎらいなので、メーキャップでカバーし、全体の出席率を上げた。ホームクラブは30%だったが、新幹線で静岡まで行って、ターミナルホテルなど、他クラブの例会に出席した。仕事が忙しいからと言っても、やめたいとは思わなかった。例会に行けば色々な人と話が出来、自分のためになり、栄養になった。
会報委員長が思い出だ。その年、最初は会報の副委員長を引き受けた。静岡ガスの支店長だった曽根眞人さんが会報委員長だったが、2か月後に静岡に転勤になって辞めてしまった。当然の如く、委員長に格上げされたが、それまで曽根さんが全てしていたので、何をどうしてよいかもわからず大変だった。昔は、印刷会社に月曜までに原稿資料を送らなければいけない。木曜に写真を撮り、卓話の原稿も模造紙に聞いて書き取った。卓話の原稿を持ってきてくれる人はいなかった。そのうちにカセットテープに記録し、仕事が終わった夜9時から書き起こした。当時は、メールなどはなかったので、写真も現像して焼き増しして、印刷所に送った。予期せぬ役割が途中で回ってきてしまったのが大変だった。
一度だけ、どうしても会報の準備が出来ず、『ええい、いいや、来週、黙って、二つ同時に出せばよいだろう』と、飛ばしてしまった。しかし、すぐにわかった人から、『会報がない、どういう言うことだ』と言われ、実は忙しくてできなかったと言ったら、とんでもないと怒られた。さんざん説教をくらい、当時の会長さんに『俺の面目をつぶした』と怒られた。1週遅れで会報を作製し、罰金の代わりにスマイルをした。他の委員は年上で頼めず、実働メンバーになっていなかった。自分より年下のメンバーがいなかったが、今から思えばあの人に頼めばよかったとも思うが、まだそこまでの人間関係が作れていなかった。
幹事の順番では、三村正毅会長の時に幹事と言われたが、その時に全国ホンダ会の会長をしていたので受けられなかった。木曜日の毎回の出席はできず、その時の幹事は断り、以後、幹事はしていない。しかし、社会奉仕や、職業奉仕や、国際奉仕などの委員長は引き受けた。
会長は2008年に順番で来た。もうやるしかない。長老に言われてしようがない。『言われたらハイと言って引き受けるのがロータリー』と言われた。
会長は良い勉強になった。会長をやらなければ何もわからない。米山財団委員長をやっても、実際、その内容はわからないままで、会長になって初めてその意味、意義が分かった。
会長の時の思い出は、自分の在任中は結局実らなかったが、国際奉仕の人と段取りを取って、台湾ロータリー、芙蓉クラブとの橋渡しを、パストガバナーの高橋堯昭さんが台湾に行き、来年締結をしようとして約束してきた。それが思い出だ。
ロータリーへの若い人への注文は、出席率を上げてほしい。自分の社員にも言っているが、『客に会わずして仕事は取れず』、つまり、人間関係が作れない。ロータリーも同じで、出席しなければ皆とコミュニケーションが取れない、自分が委員長を受けた時も、仕事の振り分けを頼めず、大変になる。自分がきちんと対応した時は、自分が会長になった時に、みんなが応援してくれる。それはあとになってわかる。ロータリーを中心(木曜日)にして、自分の1週間の予定を立てること、あとは出席できなければ、メーキャップをすることだ。
ロータリーは色々な人に出会えて楽しい、まだまだ生涯現役で行きたい、ロータリーの行事も、色々話が出来て楽しい。年配の人は、若い人とテーブルが一緒になったら、若い人からいろんなことを聞いてきてほしいと思っている。自分の方からは『仕事うまくいっている?あなたのお父さんはどうしてる?』の話ぐらいだが、とにかく話かけてほしい。若い時は、自分もそうだった。40~50歳の人間が70歳以上の長老には臆してしまう。
あとは、やはり社員に感謝している。社員一人一人が頑張ってくれるので、年商も上がっている、自分一人の力ではない。旅の会もロータリーの例会も、社員がそれぞれ頑張っているから、出席できると思っている、例会の時間に皆が頑張っているから、自分はロータリーに行ける、社員のおかげと思っている。
Q.今の興味は、したいことは何ですか?
旅行が好きだ。子供は娘、娘、息子の3人で、孫も7人いる。年に2回は海外旅行をしている。それに国内の小旅行をしている。好きな旅行先は、東南アジアで、特にミャンマー、カンボジア、インドネシア、マレーシアが好きで、繰り返し出かけている。富士商工会議所の海外視察団の会長をしているので、今年の秋は、スペインに行ってきた。会議所の旅行、企画をしているので、自分は必ず行っている。国内は石垣島一本で、島の自然は最高で、天気が良く、ハワイのようだ。毎年、4月か、12月の27~30日に家族全員でわいわい出かけている。
あとは美味しいものを食べること、そばが好きだ。
73歳なので、あと10年は現役でいたい。毎日楽しく過ごすことが目標。商工会議所の仕事もしているが、自分の能力を出し切って地域社会に貢献したい。これまで仕事をさせてもらったお返しをしたい、あとは若い社員がこの会社を引き継いでこれを舞台に立ち廻ってくれればよいと思っている。
写真は、ロータリー懇親会での増田君と奥様、会社会議室の増田君、会議室に張り出された職員の目標、、本部外観、アフターサービス部門、中古車展示場です。
インタビューアー(高井計弘)のコメント;
今回も先輩から、貴重なお話を聞かせていただきました。中国の話は、かつて私も日赤医療センター勤務時代に、当時の唐家璇 日本大使館公使(のちの外相、国務委員)に広尾の中国大使館に招かれ、夕食を共にしたことがあります。当時の良い印象と、その後の習近平体制の手のひらを反すような日本への対応を見ると、大きな変化があり、増田さんのご苦労は多変なもので、増田さんだからこそ、乗り越えられたものと尊敬します。
また、ロータリーにまつわる話も、なかなか聞きにくいことも、今後の若手のメンバーの参考にと、答えていただきました。ありがとうございます。
株式会社 富士ホンダ
富士市依田橋770−1
TEL 0545−33ー0383
自動車販売